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東京地方裁判所 昭和33年(行)67号その1 判決 1967年4月11日

原告 仙台勤労者音楽協議会 外四一名

被告 国

訴訟代理人 横山茂晴 外四名

主文

1  原告らの請求はいずれもこれを棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

(当事者双方の求める裁判)

一、原告らの求める裁判

1、被告は各原告に対しそれぞれ別表第二欄記載の金員を支払え。

2、なお、仮執行の宣言を求める。

二、被告の求める裁判

主文と同旨。

(当事者双方の主張)

第一、原告らの主張

一、原告らの性格ならびに組織および運営の実情

(一) 原告らは、健康で文化的な音楽、舞踊等を自主的に上演し、会員の情操と文化的教養を高め、音楽サークル活動の発展を図り、日本文化の創造と育成に寄与することを目的として、それぞれ別表第一欄記載の各年月日にその各肩書事務所所在地およびその周辺の職場、地域、学校等における勤労者、農民、学生等の音楽愛好家をもつて組織された団体であり、規約があつてこれによつて代表の方法、最高決議機関の組織および運営の方法、財産の管理等が定められ、社会的現象または実在としては団体として活動しているが、法律的には個人でも法人でもなく人格を有しないものである。したがつて、原告らは民事訴訟法第四六条に規定する「法人に非ざる社団にして代表者の定あるもの」、すなわち、いわゆる人格なき社団に該当する。

(二) 原告らは、右のような目的のもとに組織されたものであり、この目的のための諸活動は労音運動と呼ばれているが、昭和三六年一一月全国労音連絡会議において、労音運動の基本的任務が決定された。もつとも、それ以前から右決定の趣旨で活動がなされていたのであり、この決定は明文化された確認事項であつた。この決定の一部を引用すると、次のようなことがいわれている。すなわち、「労音運動は、日本民族の進歩的音楽運動の伝統を受け継ぎ、発展させ、海外諸民族の民主的遺産に学び、芸術家、知識人ならびに進歩的諸勢力と協力して、自分自身の成長と社会の進歩に役立つ音楽文化を創造することを目的としている。また、そのことによつて、勤労者の人間性を高め、その連帯性を強化する運動である。労音運動は、勤労者の立場に立つ民主的音楽運動である。その組織原則は、サークルの活動を基礎にした民主的運営である。」と。また、原告らには共通の綱領があり、

「一、私たちは、よい音楽をより安く、より多くの人たちと楽しみ、私たちの生活にひろく音楽文化をもたらします。

一、私たちは、全国各地の勤労者音楽協議会(以下、労音と略称する。)、文化人、音楽関係者と手をつなぎ、国民音楽の創造をします。

一、私たちは、労音の自主性を堅持し、常に会員の希望、意見を尊重した企画運営を私たちの手で行ないます。」

と掲げられている。労音運動の目的は、右の基本的任務および綱領によつてほぼ表明されている。そして、原告らの活動、すなわち、いわゆる労音運動は右の基本的任務および綱領に即し、これに統一されて行なわれているのである。

(三) 原告らの会員数は、各原告によりまちまちであり、原告東京労音および同大阪労音は一〇数万人の会員を擁し最大の組織を有しているが、原告らの大部分は会員数約二、〇〇〇人から五、〇〇〇人(最小のものは原告田川労音であり、会員数は約五〇〇人である。)までであり、横浜、名古屋、京都等の各労音は右両者の中間に位し会員数は一万人以上である。

原告らの組織および運営の実情は、右のような会員数の多少によつて若干の相違はあるが、本質的には同じであり、その詳細は別紙第一記載のとおりである。

二、原告らが右の目的に従つて例会を催して音楽、舞踊等を上演し、会員がこれを観賞していたところ、各所轄税務署長はこれを対象として入場税の賦課処分をした。そこで、原告らはやむなく右賦課処分に従い被告に対し入場税を納付した。原告らが昭和三三年三月分、四月分、六月分あるいは七月分の入場税として被告に納付した金額は別表第二欄記載のとおりである。

三、しかしながら、原告らに対する右入場税の賦課処分は次の理由により無効である。

(一) 人格なき社団である原告らはそもそも租税義務能力を有しない。

前述のように、原告らは講学上いわゆる人格なき社団といわれるものである。ところで、人格なき社団は、民法上権利能力を認められていないが、社会的に実在し活動するものであるから、法律もこれをまつたく無視することができず、ある場合にはある程度の法的地位を認めるに至つた。しかしながら、それにもかかわらず、人格なき社団は実定法上はいまだわずかに手続参加の能力(例えば、民事訴訟法上の当事者能力)を認められているにすぎない。そして、この手続参加の能力を認められているということは、決して被告の主張するように人格なき社団が実体法上も社会生活の一単位としての法的地位を認められ、自然人あるいは法人と同様に社会的作用ないし活動を営みうることを意味することにはならないのである。

右の点を明らかにするために、人格なき社団の実体について深く検討してみよう。人格なき社団は、単なる個人の集合ではなく、永続的な特定の目的をもつた個人の集合体であり、規約をもつて運営され、総会と代表者等の役員があり、役員がその事務運営の衝に当り、その運営に要する費用は会員(構成員)がきよ出するものである。役員は総会の決議に基づき会員の意思を反映して対内的、対外的に活動する。会員は定められた会費以上の金銭的負担をなす意思も義務もない。会費としてきよ出された金銭または財産は会員全員の総有に属し、人格なき社団の所有でも役員の所有でもない。また、人格なき社団が社会的活動を通じて財産を取得したとしても、それは会員全員の総有となるのであつて、人格なき社団の所有となるものではない。人格なき社団の性格を要約すれば、大体右のようなものである。このように考えると、人格なき社団の中心的な役員を通常「代表者」と呼んでいるが、その意味は一般に用いられている代表者の意味といささか異なることがわかる。すなわち、一般に代表者とは株式会社の代表取締役のように法人格を有する法人の代表者で、人格者たる法人の権限を代表して活動し、その活動の結果が法人の構成員にではなく法人そのものに帰属する立場にあるものを呼称するからである。人格なき社団の代表者は規約と総会の決議によつて選任されるものではあるが、実際は会員全員の代理人である。ただ、一般の代理人と異なるところは、人格なき社団の場合には規約と総会の決議および役員会の決議によりある程度包括的な代理権を有しており、その行使に際していちいち会員全員の氏名を表示しなくとも当該人格なき社団の名称とその会長とか委員長という資格を表示することによつて会員全員の代理権を行使することができることである。したがつて、人格なき社団においては、会員全員が代表者を通じて人格なき社団の名において総有的に活動し、その取引上の法律効果も会員全員に帰属することになるのである。決して、被告が主張するように、人格なき社団みずからがその代表者を通じて自己の名において社会的活動をし、その法律効果を享受するものではないのである。また、人格なき社団においては会員からきよ出された会費および人格なき社団がその社会的活動を通して取得した財産は人格なき社団の所有となるものではなく、会員全員の総有となるものである。つまり、人格なき社団においては、一般の所有権の場合と異なり、所有権に内在する管理処分権限と使用収益権限とが分裂し、前者は会員全員に不可分的に属し、後者は会員ひとりひとりに可分的に属しているのである。それゆえにこそ、人格なき社団の代表者の行為は総有的にまたは個々的に直接会員に法律効果を及ぼすのである。人格なき社団の代表者は会員の代理人であるといわれるゆえんである。

ところで、人格なき社団は大正一五年の民事訴訟法の改正によりその第四六条においてはじめて民事訴訟法上の当事者能力を認められるに至つたものであり、これが人格なき社団がわが国の成文法の世界に登場した最初であるが、右規定は実際の必要から設けられた便宜的な規定である。すなわち、人格なき社団は、前述のように、会員全員が代表者を通じて総有的に活動するものであるから、本来ならば会員全員が原告となり被告となるべきものである。しかし、場合によれば幾千、幾万人と存する人格なき社団の会員全員が原告または被告として訴訟に登場することは事実上不可能に近く、また、人格なき社団の会員は加入、脱退が自由であるから訴訟中に会員が増減することも考えられ、その都度当事者を変更することは大変な手数である。そこで、民事訴訟法第四六条の規定が設けられ、代表者の定めある人格なき社団には特に当事者能力を認め、会員全員が人格なき社団の名において原告となりまたは被告となつて訴訟行為をすることができることになつたのである。右のように同条の規定は、人格なき社団に当事者能力を擬制してその名において会員全員が原告となりまたは被告となつて訴訟行為をなしうることとし、その訴訟上の効果が会員全員に帰属することを定めたものではあるが、それはあくまで人格なき社団に手続参加の能力を認める趣旨以上に出るものではないから、右規定の存在をもつて実体法上人格なき社団が権利能力を有することの根拠とすることはできない。被告は、手続参加の能力はそれ自体を目的とするものではなく、実体法上の法律関係を保護することに奉仕する手段にすぎないと主張する。しかし、果してそのように解することができるであろうか。例えば、人格なき社団はその名において不動産登記をすることが許されないが、それは単に不動産登記法上の手続上の理由によるものではなく、また、法が人格なき社団に不動産の取得能力を否定するからでもなく、まさに人格なき社団には実体法上の一切の権利能力が否定されていることの反射的な現象にすぎないのである。

以上のように、人格なき社団は実体法上権利能力を有しないのである。ところで、権利能力なき社団とはまた義務能力なき社団でもある。人格なき社団は一切の権利を取得し、または義務を負うことのできない存在である。したがつて、租税債務の主体たり得ないものであり、これに対し租税を課することも不能である。また、人格なき社団は実体法上権利能力を否定されているため、資本主義社会においてもつとも代表的かつ象徴的な権利である所有権を取得する能力をも否定されるので、所有権その他一切の財産権の主体となることができない。ところが、租税は、それが国または公共団体が財政権により国民から強制的に徴する財であるといわれるように、納税義務者の所有する財を徴収の対象とするものであるから、租税義務能力も民法上の所有権能力を前提としてはじめて成立しうるものである。所有権能力を有しない人格なき社団に対し税法において納税義務を課しても、その義務の履行は原始的に不能である。したがつて、人格なき社団はこの点においてそもそも租税義務能力を有し得ないものといわなければならない。被告は、各種の行政法規において人格なき社団を法規制の対象とする法規を制定すれば公法上の権利義務の主体とすることができるかのように主張する。しかし、基本的な実体法と無関係に公法の分野で特殊な人格者を作り出すことは不能である。かりに百歩を譲つて、税法の分野でかかる人格者を作り出すことができるとしても、実体法上かかる人格者は財産を所有することができないのであるから、納税させることは不可能である。実施することのできない法規を制定しても無意味であるから、被告の右主張は理由がない。

そして、原告らは、前記のとおり人格なき社団であるから、租税義務能力を有しないものというべく、したがつて、原告らに対してなされた課税処分も当然無効である。

(二) 原告らは人格なき社団であるから入場税法上の「主催者」となる資格がなく、したがつて、入場税の「納税義務者」ではない。

すなわち、入場税法第二条に規定する「主催者」および同法第三条に規定する「納税義務者」とは自然人または法人たる人格者に限るものと解するのが相当である。このことは、(イ)同法第二三条が、法人が合併した場合において合併後存続する法人または合併により設立された法人は合併により消滅した法人の、また相続の開始があつた場合においては相続人は被相続人の、それぞれ同法第一〇条または第二一条に規定する入場税課税標準額または開廃業等の申告義務ならびに同法第二二条の規定による記帳義務を承継する旨を定め、また、同法第二八条が、法人の代表者または法人もしくは人の代理人、使用人その他の従業員がその法人または人の業務または財産に関して同法第二五条ないし第二七条までの違反行為をしたときは、その行為者を罰するほか、その法人または人に対しても当該各条の罰金刑を科する旨規定していることによつて明らかである。(ロ)また、所得税法および法人税法の各規定を検討すると、いずれも人格なき社団についてこれを法人とみなす旨の規定(昭和四〇年法律第三三号による全面改正前の所得税法(以下、旧所得税法という。)第一条第七項、同年法律第三四号による全面改正前の法人税法(以下、旧法人税法という。)第一条第二項)があり、また、両罰規定(旧所得税法第七二条、旧法人税法第五一条)が設けられていて、人格なき社団に所得税法および法人税法の規定が適用されることが法律上明文をもつて定められている。所得税法および法人税法が人格なき社団を納税義務者として予定するかぎり、租税法律主義の立場からいえば、これは当然のことである。これに対し、入場税法には人格なき社団を納税義務者とする規定もないし、これに対する両罰規定もない。租税法を統一的に理解する上からいつても、このことは入場税法第三条に規定する納税義務者には人格なき社団が含まれないことを示すものと解すべきである。(ハ)さらに、入場税には人格なき社団に関する規定を設けようとして失敗した経緯がある。すなわち、昭和三七年二月二一日国会に提出された国税通則法の政府原案第一三条は人格なき社団等を国税に関する法律の規定については法人とみなすというものであつたが、右原案は国会の審議の経過で第三条として人格なき社団等は法人とみなして同法を適用すると修正され、同年四月二日成立した。かくて、人格なき社団は、国税全部にわたつて法人とみなされるのではなく、国税通則法の規定の適用についてのみ法人とみなされるにとどまることとなり、納税義務の存否については各本法の規定するところによることとなつたのである。一方、同年四月一日施行された改正入場税法はその第二八条において人格なき社団に関する両罰規定を設けたのであるが、その後、前記国税通則法の政府原案が修正可決されたのに伴い「国税通則法の施行等に伴う関係法令の整備等に関する法律」(以下、整備法という。)第一四条により右改正入場税法第二八条の人格なき社団に関する両罰規定は再び削除されるに至つた。右改正入場税法第二八条の人格なき社団に関する両罰規定と国税通則法政府原案第一三条との関係について、参議院法制局長は、「入場税法第二八条の改正規定は国税通則法政府案第一三条を前提として改正せられる規定であり、仮に国税通則法第一三条の規定が将来通過成立せず、入場税法第二八条の改正案そのままの形の法律が先に成立した場合においては、入場税法第二八条の改正規定の改正部分は死文か空文になるので、その点はなんらの改正を加えなかつた現行の第二八条と同じだと思う。」旨の答弁をしている。整備法第一四条による前記入場税法第二八条の改正規定の削除は、国税通則法の前記修正可決に伴い入場税法第二八条の右改正部分が死文化または空文化したためになされたものである。そこで検討してみるに、もし入場税法がその解釈上当然に人格なき社団に対しても適用されるものであり、したがつて、国税通則法において人格なき社団等を法人とみなして入場税法等各国税本法を適用するという規定を設けることが確認的なものにすぎないのであるならば、入場税法第二八条の改正規定に人格なき社団に関する両罰規定を設けた場合、仮に国税通則法政府原案第一三条が前記のように修正されることになつたとしても、入場税法の右改正規定が死文化または空文化することは理論上あり得ない。それにもかかわらず、国税通則法政府原案第一三条の修正可決により入場税法第二八条の右改正規定が死文化または空文化したということで整備法第一四条によりこの改正部分を削除したということは、理論的に考えれば、人格なき社団に関する明文の規定を設けない以上、入場税法は人格なき社団に対しては適用されないものであるという原告らの主張を裏付けるものである。被告は、昭和三六年七月五日の税制調査会の答申を引用して国税通則法政府原案第一三条の修正の有無にかかわらず人格なき社団等は入場税の納税義務を負うと主張するが、右答申の存在は知らない。

被告は、入場税法上の「主催者」および「納税義務者」が自然人または法人のような人格者でなければならない理由はないとして、入場税法第八条および同法別表の記載を援用している。右別表の上欄に「児童、生徒、学生又は卒業生の団体」、「学校の後援団体」および「学校教育法第十条の社会教育関係団体」が掲げられていることは、被告主張のとおりである。しかし、前述したところに基づき右第八条を合理的に解釈するならば、同条は右の団体等が人格を有する場合にのみ適用されるものと解しなければならないのである。被告は、同法別表上欄に掲げる団体のうち人格を有する者のみが同法第八条の適用を受けると解することは、結局において、同じく同法第二条所定の催物を行ないながら、人格を有する者のみが同法の規整を受けるのに、人格を有しない者はその適用を免れることとなり、平等課税の原則に反し徴税の公平を失することになると主張する。しかし、平等課税の原則および徴税の公平という概念は、租税法規制定上および運用上の原則であるとともに、それはあくまでも原則であるにとどまる。それは原則であるから例外があることはもちろんである。租税法規制定上右の原則の例外が多いことは、所得税法、法人税法、租税特別措置法等に随所にその例をみることができる。また、租税法規の運用上右の原則を適用するについては、右の原則は、特定の租税法規のもとでしかも対等の立場にある納税義務者相互間に作用するだけであつて、それも、課税標準、税率等は法定されているから、租税担当の行政官のし意による差別待遇を禁ずる意味を有するにすぎないものとなつているのである。したがつて、納税義務者と納税義務のない者との間にこの原則が適用されることはあり得ないのである。そして、さきにも述べたように人格なき社団は入場税法上の納税義務者ではないのであるから、これらの社団と法人格を有する社団との間に平等課税および徴税の公平の原則を持ち出すことはそれ自体無意味である。

被告は、また、入場税は消費税の一種であつて、その実質的負担者は入場者であるから、法人格を有しようと有しまいと催物を行なつて入場者から入場料金を領収する者は入場税を納付すべき義務があると主張する。しかし、右の主張は、入場税が消費税の性格を有することから直ちに人格なき社団が入場税法上の納税義務者であるとの結論を導き出すものであつて、同法第二条、第三条の規定や人格または権利能力に関する民法上の法理論を無視したびゆう論である。また、入場税の実質的負担者が入場者であるということはこの種の税の経済的側面であり、経済的側面を強調するの余りにその法律的側面を見落してはならない。法律的側面の不可欠の要点として例示しうるのは、税の対象(客体)と納税義務者(主体)である。この点について入場税を検討すると、入場税が消費税(間接税)であるかあるいはこれを入場者に転嫁しうるか否かにかかわらず、課税の対象は経営者または主催者が特定の入場料金を入場者から領収することであり、納税義務者は経営者または主催者であることが明らかである。のみならず、後述するように原告らはなんぴとからも入場料金を領収していないのである。よつて 被告の右主張も失当である。

以上に述べたところから明らかなように、人格なき社団は入場税法上の「主催者」および「納税義務者」となり得ないのである。しかして、原告らが人格なき社団であることはすでに述べたとおりであるから、原告らは入場税法上の「納税義務者」となり得ないものというべく、したがつて、原告らに対してなされた前記入場税の賦課処分は無効である。

(三) 仮に入場税法第三条が人格なき社団にも適用されるとするならば、右規定は憲法第三〇条、第一四条、第八四条および第三一条に違反し無効である。

(1) 憲法第三〇条は、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」と規定している。ここに「国民」とは自然人に限るのであるから、憲法上法人に納税義務ありや否やは問題であるが、一般には法人も納税義務があるものとされ、租税法規もそのように規定している。しかし、原告らは人格なき社団であるから国民でないことはもちろん法人でもない。したがつて、原告らに入場税の納税義務を課することは憲法第三〇条に違反することになる。

(2) 憲法第一四条は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と規定する。したがつて、仮に原告らが国民とみなされるとするならば、法のもとに平等に取り扱われなければならない。もちろん、自然人のみに固有の身分上の権利を有し得ないことは法人と同様であるが、人格なき社団が一切の私法上の権利能力および公法上の権利能力を奪われていることは法人と著しく異なる点である。被告の主張するところによれば、人格なき社団は右のような一切の権利を有することはできないが、入場税の納税義務のみを負担するというのである。これは、人格なき社団を他の人格者と不当に差別するものであつて、憲法第一四条に規定する法のもとにおける平等の原則に反することになる。

(3) 憲法第八四条は租税法律主義の原則を規定しているが、それは、法律なくして租税なしの原則を定めたにとどまらず、租税における適法手続の保障をも規定したものと解すべきである。したがつて、課税法規はその内容が不合理であつたり不明確であつたりすることは許されないものと解しなければならない。しかるところ、租税の納税義務は前述のように納税義務者の権利能力、特に所有権取得能力を前提としてはじめて成立し得、また、これを履行しうるものであるから、人格なき社団に対し租税法規をもつて納税義務を創設し課税処分をしても、かかる法規または処分は不合理である。のみならず、入場税法上人格なき社団が納税義務を負うべきものであるか否かについて明文の規定がなく不明確であるばかりでなく、仮に人格なき社団が入場税法上納税義務を負うものとしても、具体的に「人格なき社団」という名称を付した団体は存在しないのであるから、いかなる団体が人格なき社団に該当するかもきわめて不明確であり、結局行政官の裁量により確定されることになる。かくのごとき不合理かつ不明確な入場税法の規定に基づき人格なき社団である原告らに入場税を賦課することは憲法第八四条に違反するものといわなければならない。

(4) 入場税法はその第二五条ないし第二八条において納税義務者の義務履行を罰則をもつて間接的に強要しているが、入場税法における右罰則規定は所得税法あるいは法人税法等における罰則規定といささかその仕組みを異にしている。すなわち、所得税法あるいは法人税法においては正当な理由があればわずかに行政罰たる加算税の納付で足りる事案が、入場税法にあつては理由のいかんを問わず直ちに刑事罰を科せられることになつているのである。このように、入場税法は、所得税法あるいは法人税法と異なり、いささかの非違をも容赦なく直ちに刑事手続で処断することとして、間接的強制というよりむしろ直接的威嚇をもつて義務違背を取り締ろうとしているのである。つまり、単なる行政法ではなく、行政取締的刑事法そのものであるといいうるであろう。このような法構造をとる入場税法において、別法である民事訴訟法あるいは社会教育法等の例外規定を類推して、納税義務者として明確に規定されていない、「いわゆる」という修飾語を付して呼ばれる講学上の存在にすぎない人格なき社団を入場税の納税義務者であると解釈することは、類推解釈を排除する刑法理論に真向うから挑戦することになり、かつ、罪刑法定主義を宣言する憲法第三一条に違反することになる。

(四) 本件入場税賦課処分の対象となつた原告らの例会は入場税法第二条第一項の「催物」に該当しないから、原告らは同条第二項の「主催者」ではなく、また、同条第三項の「入場者」および「入場料金」も存在しない。

入場税法上の「催物」、「主催者」、「入場者」および「入場料金」とはいかなる概念であるかを検討するには、法文の構成上まず「催物」の概念を解明することがかぎである。「催物」が何であるかが解明されれば、「催物」を主催する者が「主催者」であり、「催物」を見たり聞いたりする多数人が「入場者」であり、「主催者」が「入場者」から領収する入場の対価が「入場料金」であることは容易に判明するところである。

ところで、「催物」とは、映画、演劇、音楽等多数人に「見せ、又は聞かせる」ものをいうのであつて、そこには、多数人に「見せ、又は聞かせる」側の者と「見たり、聞いたりする」側の者とがあることを前提としている。しかし、原告らの場合には、多数人に「見せ、又は聞かせる」側の者と「見たり、聞いたりする」側の者の対立はない。すなわち、原告らは、前述のように、社会現象または実在としては団体として活動しているものであるが、その本質は、よい音楽を自分たちの手で企画し、これを安く聞き、また、よい演劇を、これまた自分たちの手で企画し、これを観賞するためにその実費を持ち寄つて集つた人々(会員)の集合体であるから、原告らは会員と別個独立の関係にあるものではない。換言すれば、原告らはその中に会員を包摂した会員によつて組織された団体であつて、原告らと会員とは統一的に理解されるべきものである。そして、会員同志は契約関係にあるのである。ところで、会員がよい音楽や舞踊等をみずから企画し見たり聞いたりするためには、芸術家と交渉したり、会場を設営したりしなければならない。しかし、会員は数千、数万人という多数であり、かつ、会員の個人的事情等もあり、会員全員が芸術家と交渉したり会場を設営したりすることはできないので、会員の中から世話人を選びこれに事務を共同で委任する。原告らの代表者や委員、運営委員等はこの世話人なのである。したがつて、原告らが代表者や運営委員会等によつて運営されても、それは法人の機関のような資格でなされるものではなく、会員個々人からの委任に基づく代理人としての資格によりなされるものである。また、原告らの例会において上演される音楽、舞踊等を見たり聞いたりする者は、一般の興行の場合と異なり、会員として特定されている。会員となるためには、各職場、地域、学校等におけるサークルに加入し、入会金をきよ出し、会員名簿に登載されなければならないし、会員には会員証が交付される。会員は毎月会費をきよ出することにより会員たる身分を持続することができる。会員が退会する際はその氏名が届けられ、会員名簿からまつ消される。被告は、例会々場の入口で入会金や会費を支払うことにより会員となり入場することができるかのように主張しているが、このようにして会員となることはできないし、例会に入場することもできない。以上のような事実に徴すれば、原告らの例会において上演される音楽、舞踊等は会員がみずから上演しみずから観賞するものと認められるのであるから、そこでは「見せ、又は聞かせる」側の者と「見たり、聞いたりする」側の者とは同一人なのである。

もちろん、同じく会員組織の社団であつても実質的には一部の見せたり聞かせたりする者と名目は会員であるが見せられたり聞かされたりする者とに分れているもの(例えば、財団法人NHK交響楽団とか財団法人都民劇場)は、「見せ、又は聞かせる」という要件に該当するといつてもさしつかえないであろう。比ゆ的にいうならば、団体の内部に相対立する者が相互に相反する方向において取引関係を有する契約行為的意思結合のあるときは入場税法上の「催物」に該当し、多数の者が同一方向において意思の合致する合同行為的意思結合を有するときは「催物」に該当しないものというべきである。それでは、この両者の区別の基準は何に求められるべきであろうか。それは、団体構成員中に音楽、舞踊等を見たり聞いたりするための費用の分担金をきよ出する者としない者との二者があるか否か、あるいはそのきよ出額に差別のある者があるか否かということに求められるべきであろう。原告らの会員は、会場の設営に当る者、舞台裏で働く者あるいは座席で見たり聞いたりする者もひとしく同額の費用分担金(会費)をきよ出しているのである。かくて、会員は主催者であると同時に観客でもあるのであつて、原告らの中には「見せ、又は聞かせる」側の者と「見たり、聞いたりする」側の者との対立はないのである。

したがつて、原告らの例会において上演される音楽、舞踊等は入場税法第二条第一項に規定する「催物」に当らないものというべきである。そして、右音楽、舞踊等が「催物」に当らない以上、原告らが同条第二項の「主催者」に該当せず、これを見たり聞いたりする会員が「入場者」でないこと、したがつて、同条第三項の「入場料金」というものが存在し得ないことはおのずから明らかであろう。かように、原告らの場合には、入場税法上の「催物」、「主催者」、「入場者」および「入場料金」に該当するものが存在しないのであるから、原告らは同法第三条に規定する「納税義務者」ではない。

被告は、原告らの例会における音楽、舞踊等の上演に必要な会場を借り受ける交渉は原告らの代表者または運営委員会(その統括下にある事務局)等がこれに当り、その賃貸借契約は原告らの代表者が原告らの名において締結し、その賃借料も原告ら自身が支払つており、上演者との出演契約も右と同様にして行なわれること、上演種目も運営委員会等原告らの業務執行機関が決定し、個々の会員がこれを決定するものではないこと、原告らは上演に先立ち会員に対し機関紙で上演種目を告知し、入場の有無、日時、場所(座席)の予約を受け付け、会費納入と引換えに整理券を交付し、その持参者のみに入場を許していること等を挙げて、原告らがその構成員である会員と独立した「主催者」として存在しているものである旨主張しているが、その論理は、要するに、人格なき社団が実体法上の地位を認められており、その構成員たる会員と別個独立の人格的存在であることを前提として構成されているものであつて、人格なき社団に対する見解の相違に基づくものというほかはないから、ここでさらに反論する必要はないと考えるが、ただ次の点についてのみ被告の主張の誤りを指摘しておかなければならない。すなわち、原告らの組織に決議機関としての総会とその執行機関としての委員会、運営委員会、代表者等があることは前述のとおりであるが、これらはいずれも構成員である会員個々人の代理人であつて法律的には原告らの機関ではない。したがつて、原告らはその名において会場を借り受けたり、上演者と出演契約を結んだりすることはできないのであつて、これをなしうるのは原告らの会員の代理人たる代表者らにすぎない。また、原告らが毎月被告主張のように定期刊行物を発行しているのは、幾千、幾万人にも達する会員相互の意思の疎通をはかることを目的としているものであつて、被告主張のような趣旨によるものではない。例会に対する会員の予約申込みなるものは、会員が多数となり、例会も一日一か所では足りず、数か所で数日開催するという状態になるに及んで、会員にあらかじめ希望の種目、日時、場所等を申し出させ、希望の集中する日時、場所については委員会、運営委員会で調整し、会員の希望に対してあらかじめ公正に日時、場所(座席)を指定する必要を生ずるに至つた結果によるものである。また、会費の納入と例会の整理券の交付は同時になされることが多いが、それは会費の納入と整理券の交付を別々にする手数を省くためである。さらに、脱会とみなされるのは、会員がその月の末日までに会費を納入しない場合であるが、会員たる資格を喪失するか否かの問題は本件と無関係である。

(五) 原告らはなんぴとからも「入場料金」を「領収」していない。すなわち、入場税法上「入場料金」とは「興行場等の経営者又は主催者が、いずれの名義でするかを問わず、興行場等の入場者から領収すべきその入場の対価」(同法第二条第三項)をいうのであるが、原告らの会員が毎月きよ出する会費は「入場者から領収すべきその入場の対価」ということはできないからである。なんとなれば、(イ)原告らは、前述のようにその構成員たる会員から独立した人格者ではないから、会員から会費を領収しその金銭所有権を取得する能力を有しない。会費は会員の委任を受けた代理人(委員、常任委員、会長等の名称があつても会員の代理人たることに変りはない。)が会員から預かり、受託者として保管するものであつて、かようにして会員の代理人によつて保管された会費は法的には会員全員の総有である。代理人は例会の上演者に出演料を、会場の所有者または管理人に会場の借入れ費用等を支払うが、それは委任の趣旨に基づき会員全員の総有財産である保管金(会費)から支出するのである。したがつて、この点は、一般の経営者または主催者が映画、演劇、音楽等を見たり聞いたりする者から入場の対価たる金銭を領収することによりその金銭の所有権を取得し、かくして取得した自己所有の金銭の中から上演者に対する出演費用等一切の経費を支払う関係と異なるのである。(ロ)また、原告らの会費は、収支トントンになることを建前としており、いわゆる同好会の持寄り会費そのものであつて、一般の経営者または主催者が領収する入場料金のように、経費を支出してなお余剰金を生ずることを期待しているものではない。被告は、原告らの収支はトントンではなく、きよ出会費は経費を支払つてなお余りがあるかのような主張をしているが、そのような事実はない。すなわち、原告らの会員は、すでに述べたように直接間接に世話人を選出し、世話人を代理人として芸術家と交渉し会場を設営して例会を催し、みずからよい音楽や舞踊等を見たり聞いたりしているのであるが、このほかにも音楽文化の教養を高めるためにレコード・コンサート、座談会、批評会、講座が開かれる。これらは、サークル、地域会議の要求によつて開かれる。レコード・コンサートの場合に使用されるレコードは原告ら所属のものだけではない。サークルが原告ら所属のレコードを使用する場合は、サークルがレコードの使用損料をきよ出する。しかし、地域会議が原告ら所属のレコードを使用する場合は、地域会議はレコードの使用損料をきよ出しない。その理由は、サークルの場合はサークルの自主的な活動として行なうものであり、かつ、会場も小さくてよく費用も多くかからないのであるが、地域会議の場合は会場も大きなものを要し費用も多くかかり、かつ、地域の各サークルとの連絡等のためにも費用を要するからである。また、地域活動を活発にするということが総会の決議であるからでもある。そのために、地域会議の催すレコード・コンサートの費用をすべて原告らが負担することもある。座談会および批評会は主としてサークルの段階で催される。その費用を原告らが負担することがあるが、それは音楽文化の教養を高めるという原告らの事業目的に合致するからである。講座は、合唱、マンドリン、ギター、ウクレレ、アコーデイオン、フオーク・ダンス、音楽史等の講座である。講座の費用は参加者がきよ出するのが原則であるが、原告らもその一部を負担する。右のレコード・コンサート、座談会、批評会および講座は毎日幾か所でも開かれている。このほかに、機関紙、ニユース等が出されていることはいうまでもない。右のようにみてくると、原告らはいわゆる例会の費用以外に多くの費用を負担していることが明らかである。しかも、例会は、会員の数と会場の広さとの関係から満員にならないこともある。したがつて、被告の主張するように、一か所の会場の収容人員とその数の会員の会費とその会場における上演費用とを対比して、原告らの収支を計算することは正確ではない。(ハ)さらに、原告らの会員が毎月きよ出する会費は、会員が会員たる身分を取得し、かつ、存続させるための条件であつて、例会において音楽、舞踊等を観賞するための入場の対価ではない。すなわち、対価とは一方の給付義務に対応するところの他方の給付義務であることはいうまでもないが、原告らの会員がきよ出する会費は原告らの会員たる資格に伴う給付義務であつて、例会への入場に対する給付義務ではない。会員たる身分を取得しまたはその身分を存続させるために、会員は会費をきよ出しなければならないのであつて、会員は例会に出席し音楽、舞踊等を観賞すると否とにかかわらず会費をきよ出する義務があるのである。原告らの会員のうちには会費をきよ出するにもかかわらず音楽、舞踊等を観賞しない者もあるが、それは会費が入場の対価でないことを物語るものである。原告らの会費は、原則として毎月一定しており、一般の音楽、舞踊等の入場料金のように各上演種目ごとに異なることはなく、また、上演されるものが安価であるからといつてその月の会費が安くなることもないが、これも会費が入場の対価ではなく、会員たる身分の取得および存続のための条件だからである。被告は、原告らの会員が毎月納入する会費は入場の対価であると主張し、その理由として、例えば原告東京労音において産経会館ホールを例会会場として使用する場合にはそこに入場しようとする会員は産経費として三〇円を納入しなければならないこと、上演種目が外国人演奏家による演奏、オペラ、バレー等特別のものである場合には多額の特別料金(同原告においては追加費と称している。)を支払わなければならないこと、産経費および特別料金を決定するのは原告東京労音の業務執行機関であつて、会員はこれに入場するかどうかを選択する自由しか有しないこと、されば、右産経費および特別料金は会員がみずから決定して納入するものではないこと等を挙げている。しかし、右産経費および追加費なるものが存することは認めるが、産経費は会員の意思によつて決定された産経会館ホールで開催される例会に出席する会員のその月分の特別会費であり、また、追加費もその都度会員の意思によつて決定されたその月分の増額会費であるから、被告の右主張は失当である。

四、叙上のとおり原告らに対する入場税の賦課処分は無効であり、原告らは入場税を納付する義務を負わないのであるから、原告らが被告に対して納付した別表第二欄記載の金員は被告が法律上の原因なく利得し、それにより原告らは同額の損失をこおむつたのである。

よつて、原告らはそれぞれ被告に対し別表第二欄記載の金員の返還を求める。

第二、被告の答弁および主張

一、原告らの主張第一項(一)記載の事実は認める。同第二項記載の事実は、原告東京労音の昭和三三年四月分の入場税額が三四二、八四〇円であるとの点、同函館労音の同月分の入場税額が五、五八〇円であるとの点および同宮崎音楽協会の納付した一二、四〇〇円が同月分の入場税であるとの点を除き、すべて認める。原告東京労音および同函館労音の右月分の入場税額はそれぞれ三五六、七〇〇円および五、五六〇円であり、また、同宮崎音楽協会が納付した一二、四〇〇円は同年六月分の入場税である。同第三項および第四項記載の主張はすべて争う。

二、本件入場税の賦課処分には、原告ら主張のような違法はない。

(一) 原告らは、人格なき社団である原告らは権利能力がないから義務能力がなく、また、所有権取得能力がないから納税義務の履行は原始的に不能であり、したがつて、そもそも租税義務能力を有し得ないと主張する。

人格なき社団については、民事訴訟法第四六条に当事者能力を賦与する旨の規定があるが、民法上はなんらの規定もないので、実体法上人格なき社団の存在と活動を認めうるかどうかについては議論の存するところである。しかしながら、現在の通説、判例は、人格なき社団なるものを社団法人とその実体を同じくするものとしては握し、実体法上も社会生活の一単位としての法的地位を有するものと認めている。社会に存在する人的結合体が人格なき社団として実体法上の地位を認められるためには、それが社会通念上組織的単一体として独立性を有するものでなければならないことはもちろんであるが、そのためには、民法の社団法人に準じ、まずその構成員が存在して一定の根本組織を定め、これによつて目的遂行のための意思決定や業務の執行をなしうる実体を備え、自然人と同様に社会的作業ないし活動を営みうるものと認められるものであることを要するのである。そして、右の要件を具備すればこそ、人格なき社団は、民法上権利能力を認められず、したがつて、民法の社団法人に関する規定中人格の存在を前提とするものは適用されないけれども、右に述べたように実体法上社会生活の一単位として法的地位を認められ、対外的にはその代表者を通じて自己の名において私法上の契約を締結することもなんら妨げなく、また、その財産の帰属については「総有」なる観念が認められていて、各会員(構成員)は右財産に対し当然には持分権を有せず、管理処分の権限もなく、ただこれを使用収益することができるにすぎないものとされるのである。公法の分野において人格なき社団が自然人や法人と並んで法規制の対象とされることはしばしば見受けられるところであるが、それも、人格なき社団が右のように民法上権利能力を認められないながらも、社会生活の一単位として独立性を有し、種々の社会的作用ないし活動を営み、その実体法上の地位を認められるに至つているがためである。したがつて、人格なき社団が民法上権利能力を認められていないからといつて、公法の分野でその権利義務の主体たり得ないものということはできない。要は、当該行政法規が人格なき社団を法規制の対象としているかどうかというもつぱら当該行政法規の解釈によつて定められるべき問題である。

原告らは、人格なき社団が実定法上「手続参加の能力」を認められていることは実体法上も社会生活の一単位として法的地位を認められていることを意味するものではないという。しかし、原告らのいう「手続参加の能力」はそれ自体を目的とするものではなく、実体法上の法律関係を保護することに奉仕する手段にすぎないのであるから、人格なき社団が実定法上「手続参加の能力」を認められているということは、とりもなおさず、人格なき社団が被告主張のように実体法上の地位を認められるに至つていることを物語るものである。

よつて、人格なき社団が民法上権利能力を認められていないことから直ちに租税義務能力も有し得ないものであると結論づける原告らの主張は失当である。

(二) 原告らは、原告らは人格なき社団であるから入場税法上の納税義務者ではないと主張する。

原告らの右主張は、要するに、入場税法上の納税義務者とは自然人または法人に限られ、これ以外のものは同法所定の納税義務者になり得ないという前提の上に立論されている。しかし、入場税法上の納税義務者は自然人または法人のような人格を有する者に限定されるべきではない。けだし、同法第三条は入場税の納税義務者を興行場等を常設し長期間継続して催物を行う経営者または臨時に興行場等を設けまたは借り受けて催物を行なう主催者と規定している。そして、わが国の催物興行の実際をみてみると、概して自然人または法人のような人格を有する者が興行場等を常設し相当長期間継続して催物を行なうことが多いが、そればかりではなく、人格なき社団または財団である卒業生の団体その他の任意団体等とか、時としては国、地方公共団体その他の公共団体等が臨時に興行場等を設けまたは借り受けて臨時の催物を主催する例もしばしば見受けられるところである。しかし、入場税は消費税の一種であつて、催物に入場するのに対して課税しようとするものであり(同法第一条参照)、しかも、その実質的負担者は入場者であつて右の経営者および主催者は徴税の便宜上入場税を国に納入すべき義務があるにすぎないのである。したがつて、納税義務者たる経営者または主催者が人格を有する者であるか否かは同法第三条の問うところではないのである。すなわち、法人格を有すると有しないとにかかわらず、催物を行なつて入場者から入場料金を領収する者は、その領収した入場料金につき入場税を国に納付すべき義務があるのである。この点において、所得税法および法人税法が個人、法人および人格なき社団または財団の区別を前提としてそのおのおのの所得に対し所得税または法人税を課するのとは大いに立法の趣きを異にしている。また、入場税法第八条は免税興行として「児童、生徒、学生又は卒業生の団体」、「学校の後援団体」、「社会教育法第十条の社会教育関係団体」等一般に人格なき社団または財団として活動している団体を別表上欄に掲げているが、このことからも入場税法が人格ある者のみを入場税の納税義務者としているものではないことが明らかである。原告らは、右別表上欄に掲げられた団体について、これらの団体が人格を有する場合にのみ入場税法第八条が適用されるものと解すべきであると主張する。しかしながら、かかる解釈は、前述した入場税法の立法趣旨に反するものであるといわなければならない。すなわち、同法は、催物に当り入場者から入場料金が領収される場合にこの入場料金につき入場税を課そうとするものであり、かかる入場税の納税義務者を右入場料金の領収者、すなわち、当該催物を主催する者と定めている。それゆえに、同法は、法人格の有無を問わず広く入場料金を領収して行なわれる催物をその課税対象とし、例えば、人格を有する「児童、生徒、学生又は卒業生の団体」等も人格を有しない同種の団体もひとしく右のような催物を行なうかぎりおしなべて納税義務を負わせることとし、他方、同法第八条の要件を具備すればこれまたひとしく免税興行の特典を与えようとしているものと解すべきである。しかるに、原告ら主張のように人格を有する者のみが免税興行の特典を受けうるものと解するとするならば、その実質において同じように同法第二条所定の催物を行ないながら、人格を有する卒業生の団体等は同法に基づく規整を受けるのに反し、人格を有しない卒業生の団体等はその適用を免れることとなり、平等課税の原則に反し徴税の公平を失する結果となる。したがつて、原告らの右解釈は、入場税法の立法趣旨を無視したし意的なものである。

原告らは、入場税法第二三条および第二八条を挙げて原告らの主張の根拠としている。しかしながら、右規定は、以下に述べるような行政上の必要ないし立法政策として設けられた特別の規定であるから、入場税の納税義務者が自然人または法人のような人格者に限られると解すべき根拠となるものではない。すなわち、まず、同法第二三条は自然人が死亡しまたは法人が合併により消滅した場合にその相続人または合併後存続する法人ないし合併により設立された法人に同法第一〇条および第二一条の申告義務および第二二条の記帳義務を承継させようとするものである。元来、入場税は賦課徴収を建前とし、経営者等からの申告はその賦課徴収権の発動を促すにすぎないものであるから、前記申告ないし記帳は徴税上不可欠のものではない。しかし、かかる申告等があれば、入場税の徴収上適正かつ迅速な課税が容易となるので、興行主体の変動に伴い申告ないし記帳に支障をきたすおそれがある場合、これに適宜の措置を講じておくことは、行政上望ましいことである。右第二三条はこのために設けられた規定である。右の点をさらに詳言しよう。従来人格なき社団または財団等が催物を主催する実例をみると、そのほとんどが臨時的に興行場等を設けまたは借り受けてきわめて短期間催物を主催するものであり、それらの者が興行場等を常設し長期間継続して催物を行なうという例はまつたく見受けられなかつた。そこで、人格なき社団等が主催者となる場合を含め一般に臨時興行の形態をとる主催者については、同法がすでに同法第二一条により催物開催の申告をさせ、催物を終えてから五日以内に課税標準額の申告をさせた上(同法第一〇条第一項但書)直ちに納税させる建前をとつている(同法第一二条第二項)ばかりでなく、催物の開催に当りあらかじめ入場税を保全するため金銭、国債等を担保として提供させることを原則としている(同法第一四条第一項第一号、第一七条)ので、興行主体の変動に伴う前記申告ないし記帳の遅延または懈怠に対する予防措置をとるまでもなく、十分に徴税の実を挙げうるのである。これに対し、もつぱら自然人または法人がその経営主体となつている常設館等による興行形態では、同法第二一条による開業申告があつて毎日催物を行なつていても、入場税は翌月末日までに納入すれば足り(同法第一二条第一項)、しかも、長期間継続して興行し入場者から多額の入場料金を領収しながら担保は無資力等の例外的な場合にかぎり提供を命ぜられるにとどまるのである(同法第一四条第一項第二号)から、徴税手続上経営主体の変動に伴い同法第一〇条および第二一条の申告義務および第二二条の記帳義務を相続人または合併後存続する法人ないし合併により設立された法人に承継させ、もつて徴税効果の実効を期する必要があるのである。そこで、同法は、後者の場合を予想して前記のような特別の措置を講じたのであるが、前者の場合、すなわち、人格なき社団等が主催する催物については、徴税上このような措置をとる必要がないものとしてなんらの手当をしなかつたのである。したがつて、同法第二三条が人格なき社団をその規制の対象としていないからといつて、同法が人格なき社団に入場税の納税義務を負わせていないものと速断することは誤りである。次に、入場税法第二八条についてであるが、同条は法人についての両罰規定である。前述したように法人は自然人と並んで常設館等の経営者となつて、月間相当多額の入場料金を領収しているから、法人が入場税の徴収上必要な申告や入場券の交付ないし半片の切取りその他同法所定の義務を怠るときは、徴税効果を著しく阻害するおそれがある。これに対し、人格なき社団等の主催する催物は前述したように従来臨時的かつ小規模で、その領収する入場料金も多くはなかつた。そこで、同法は、立法政策的見地から、前者につき両罰規定を設け、この面から徴税効果の実効を担保しようとしたが、後者についてはその必要がないものとしてかかる規定を設けなかつたのである。したがつて、人格なき社団について両罰規定を欠いているからといつて、これに対し入場税の納税義務を負わせない趣旨であると解すべきでないことはいうまでもない。以上のとおりであるから、原告らの上記主張は、いずれも徴税上の行政的ないし立法政策的な諸規定をもつて前述した入場税の本質を曲解しようとするものであつて、失当である。

原告らは、また、国税通則法の政府原案第一三条の修正に伴い昭和三七年四月一日から施行された入場税法第二八条の改正規定が再び削除されたことをもつて人格なき社団が入場税の納税義務を有しないことの一根拠とする。しかし、国税通則法の政府原案中人格なき社団等に関する規定は昭和三六年七月五日の税制調査会の答申に添い置かれたものであつて、右答申によると、人格なき社団等に対する納税義務については現在一部の税法に規定されているにとどまるが、各税法に特別の規定のないかぎり、これを法人とみなして各税法を適用する旨を統一的に規定し、また、罰則についても現行国税徴収法第一八九条の規定に準じて規定の整備を図るべきものとされていたのである。そして、この答申は、その答申の根拠を別紙第二記載のとおり詳細に説明している。この説明によつて明らかなように、人格なき社団等は、国税通則法政府原案第一三条の修正の有無にかかわらず、入場税の納税義務を負うのであつて、右規定の修正によつて影響を受けるのは人格なき社団等の納税義務ではなく、罰則規定の整備と相まつてなされる人格なき社団等および行為者に対する処罰の問題なのである。

よつて、人格なき社団は入場税法上の納税義務者たりうるものである。

(三) 原告らは、仮に入場税法第三条が人格なき社団にも適用されるとするならば右規定は憲法に違反すると主張する。

憲法第三〇条は、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」と規定しているが、これは、原告ら主張のように、自然人のみに納税義務を負わせ、それ以外の者に納税義務を負わすべからざることを規定したものではない。納税の義務は、自然人(日本国籍を有する日本人)のみならず、外国人や法人はもちろん人格なき社団といえども憲法第八四条に基づき法律をもつて定める場合には、納税義務を負わすことができるのである。

また、入場税法が人格なき社団に納税義務を負わせることはなんら法のもとにおける平等の原則に反するものではない。すなわち、現行法上、人格なき社団といえども社会生活の一単位として法的地位を与えられていることは既述したとおりである。したがつて、人格なき社団は民法上権利能力を認められていないけれども、社団法人に準じ、社会的作用ないし活動を営むことを認められ、その名において第三者と私法上の契約をなし得、また、総有なる観念のもとに社団財産を管理処分することができるものとされるのである。それゆえに、人格なき社団が自然人または法人と同じように興行場等において音楽、舞踊等を上演し、多数人に見せまたは聞かせている以上は、入場税法上これを自然人または法人と平等に取り扱い、これに対し入場税の納税義務を負わせることこそ、まさに課税公平の原則に添うものといわなければならない。もつとも、人格なき社団は他の法律関係においてしばしば自然人や法人と異なる取扱いを受けているが、法人格の有無によつてある法律関係において異なる取扱いを受けるからといつて、他のすべての法律関係において同一に取り扱つてはならないということにはならないのであつて、それぞれの面における法律関係においてその実質の異同に応じあるいは同じにあるいは異なつて規定されることがあるのは当然であり、このことは憲法第一四条とはなんのかかわりもないことである。

そして、入場税法において人格なき社団に納税義務を負わせる旨の明文の規定がないからといつて、これを課税対象から除外しているものと速断すべきではない。このことはすでに述べたとおりである。もちろん、租税法規はみだりに拡張解釈されるべきではないが、当該法律の趣旨から引き出される法解釈が税法について許されないという理由はない。したがつて、入場税法が憲法第八四条の租税法律主義の原則に反するとの原告ら主張もまた理由がない。

(四) 原告らは、次に、原告らの例会は入場税法第二条第一項の「催物」に該当しないから、原告らは同条第二項の「主催者」ではなく、また、同条第三項の「入場者」および「入場料金」も存在しないと主張する。

そこで、同条第一項をみるに、同条項は、「この法律において「催物」とは、第一種又は第二種の場所(以下「興行場等」という。)において、映画、演劇、演芸、音楽、スポーツ、見せ物、競馬、競輪、展覧会、博覧会その他政令で定めるこれらに類するもので、多数人に見せ、又は聞かせるものをいう。」と規定している。したがつて、この催物に該当するかどうかは、(イ)興行場等において、(ロ)映画、演劇、音楽等を、(ハ)多数人に見せまたは聞かせるものであるか否かによつて定まる。そして、原告らも本件入場税賦課処分の対象となつた例会における音楽、舞踊等の上演が右(イ)および(ロ)の要件を具備していることについては争つていない。原告らは、右の音楽、舞踊等は第三者たる「多数人に見せ、又は聞かせる」ものではなく、会員がみずから上演し、みずから観賞するものであると主張して、右賦課処分の効力を争つているのである。しかし、右音楽、舞踊等の上演の主体は原告ら自身であつて、会員はその観客にすぎないから、右音楽、舞踊等はやはり「多数人に見せ、又は聞かせる」ものにほかならない。以下、その理由を明らかにする。

まず、入場税法第二条第一項が「催物」を定義づけるに当り、前記のような要件、すなわち、興行場等という物的要素と上演者やその出し物という人的要素を規定し、この組合せによる上演興行(多数人に見せまたは聞かせること。)をもつて「催物」と定めたゆえんのものは、社会的にみると、上演興行とは、とりもなおさず、多数人を同時に収容できる興行場等において多数人を動員しうるに足りる出し物をかけ、かくて得られる入場料収入をもつてその費用をまかなうものであるという実体に根ざしているがためである。それゆえに、同法の規定する「催物」の重要な要素は、会場の設営と、上演者とその出し物、これを組み合わせて行なういわゆる興行上演にほかならない。したがつて、会場の設営者がだれであるか、上演者との出演契約者がだれであるかということは、当該催物の主体(すなわち、主催者)を決定するについて重要な意味をもつてくる。そこで、本件について考えてみるに、本件入場税賦課処分の対象となつた原告らの例会における音楽、舞踊等の上演に当つて、多数人を同時に収容できる会場を設営した(多くは、既存の会場、例えば原告東京労音の場合を例にとれば、日比谷公会堂、産経会館ホール、神田共立講堂、日本青年館等を借り受けている。)者はもちろん原告ら自身であつて、会員個々人ではない。詳言すれば、右上演に必要な会場を借り受ける交渉は原告らの代表者または運営委員会(その統括下にある事務局)等がこれに当り、会場の所有者または管理人との賃貸借契約は原告らの代表者が原告らの名において締結し、その賃借料も原告ら自身が支払い原告らの会計帳簿の上で決済処理している(ただし、原告東京労音の場合、日比谷公会堂の借受けについては、同所は東京都が管理し多数の借受希望者中から抽選をもつて借受者を決定する関係上、その借受けの申込みも事務局員ら多数の者の名をもつて同時に行なわせ、抽選に当つた者の名義で一応使用許可の承認を受けているのであるが、その実際の借受人はもちろん原告東京労音自身であり、賃借料はいうまでもなく同原告において支払つている。)。そして、右契約に当たり、原告らの代表者や運営委員会または委員等は決して原告らの主張するように会員個々人の委任に基づく代理人として行為しているのではなく、あくまでも原告らの機関または役員として行為しているのである。そして、以上のことは、上演者との出演契約についても同様である。すなわち、上演者との上演に関する交渉は、もちろん原告らの代表者、運営委員会または委員等が当り、その出演契約も原告らの名において締結し、その出演料も原告らが支払い原告らの会計帳簿上でその収支決済を行なつている。そして、これらの会計処理は、もちろん原告らの収支計算としてその財産の管理ないし処分行為に相当するのであつて、単に会員個々人から会費を預かりこれを保管して会員に代わつて支払つているものではないのである。それのみならず、この上演種目は、運営委員会等原告らの業務執行機関が総会または委員会等の定めた運動方針や原告らの事業の目的に従い適宜決定し各上演者と交渉して定めるものであつて、個々の会員がみずから決定するものではない。もつとも、右上演種目の決定に当つては、会員の希望または趣向を反映し、できるだけこれに添うよう考慮が払われることはあるであろうが、これらの機関の意思決定はもはや個々の会員自身の意思決定と同一のものであるということはできず、人格なき社団としての統一ある組織体の意思決定であるといわざるを得ない。原告らは、人格なき社団であることを自認しながら、総会、委員会、代表者等は原告らの機関ではなく構成員たる会員全員の代理人であると主張するが、民法上権利能力がなくとも実体法上人格なき社団の存在を是認しその機関ないし役員の存在を肯定するになんらの妨げがないことは前述したとおりであるから、原告らの右主張は自己矛盾もはなはだしいものといわなければならない。

このように、会場を設営し上演者と出し物の出演契約を締結している原告らは、会員に対しても、上演に先立ち上演種目を告知し、入場の有無、日時、場所(座席)の予約を受け付け、会費(これが入場の対価であることは後述する。)の納入と引換えに整理券を交付し、その持参者のみに入場を許している。すなわち、これを原告東京労音の場合を例にとり詳述すれば次のとおりである。同原告は、毎月末までに翌月の例会の上演者、上演種目、その内容等を紹介した機関紙「ひびき」、「代表者ニユース」、「速報ニユース」(「ひびき速報版」ともいう。)等を単位責任者(各サークルの責任者)あてに送り、単位責任者は所属サークル員である会員にこれを配布して翌月の例会の上演種目、内容等を告知する。そして、単位責任者は会員の希望する種目、日時、座席の数をとりまとめ、例会申込用紙(かつて、例会会費申込用紙と呼んでいたこともある。)に記入し、右入場希望者総員の会費(通常は一〇〇円であるが、出し物によつては特別例会と称しそれ以上の追加金を必要とする。)に、もしその希望者が新入会または再入会の会員である場合にはその分の入会金(一人につき五〇円)を加え、さらに入場希望者のうち産経会館ホールを希望する者については産経費(一人につき三〇円)を加えたものを添えて事務局に提出する。もし予約締切日までに右会費等の納入がない場合は、その会員は脱会したものとみなされ、整理券の交付を受けることができず、例会に出席することができない。整理券は、一般の映画館その他の座席指定の入場券と同一の形式をとり、上演の種目、日時、場所(座席)を特記してあり、右指定日を厳守すべきこと、指定日に入場できなかつたときは予備日として指定された会場の立見席に入場できるほかは入場できないことが定められている。予約しなかつた者やサークルを通じない新入会または再入会希望者は、原告東京労音の事務所に直接おもむくかまたは電話で申し込み、所要の入会金および会費を払い込んで会員となり、整理券の交付を受けることができるほか、例会々場の入口で入会金および会費を払い込んで会員となり入場することもできるのである。そして、これらの事務を取り扱うために、同原告は、昭和三三年三、四月ころその事務所に二七名の事務局員を雇用し、その給料を支払つていた。(なお、この給料支払については、同原告みずからが源泉徴収義務者として給与所得の源泉徴収をしている。)原告東京労音の実情は右のとおりであり、他の原告らの実情もほぼこれと同様である。

以上の事実に徴すれば、原告らの例会における音楽、舞踊等の上演は、会員がみずから上演しみずから観賞するものではなく、原告らが主催し、会員は観客として入場の対価たる会費を支払つてこれを見たり聞いたりするにすぎないことが明らかである。

原告らは、その例会における音楽、舞踊等の上演をもつて、音楽愛好家が数名集つて会費を持ち寄り音楽家を招きその音楽を聞く方式を数千、数万人の会に拡大したものにすぎないから、その本質は音楽愛好家数名が開く音楽会とまつたく同一であると主張する。しかし、数名の音楽愛好家の集りによる音楽会と本件のような催物とを同質にみることは根本的に誤つている。前述したように、興行場等において音楽、舞踊等を多数人に見せまたは聞かせるには、通常、同時に多数人を収容できる会場等の設備と多数人の入場を誘うに足りる上演者および出し物が存在し、この人的、物的要素を組み合わせて興行上演するという社会的営為が必要である。そして、この社会的営為を営むためには、相当強固な経済的基礎と事業的規模が必要となつてくる。入場税法が「催物」としては握しようとするものの実体は、かくのごときものにほかならない。そうとすれば、それは、音楽愛好家が数名集つて音楽を聞く会をもつのとは根本的にその本質ないし類型を異にしているものといわなければならない。本件において問題となる原告らの例会における音楽、舞踊等の上演は、それが会員組織によつて運営されているとしても、社会的実在としては、前述のように、なおこれを主催する主体が存在するのであつて、この点において一般の興行上演となんら変りがないのである。ただ、右が一般の興行と異なるのは、原告らの設立の目的、組織、運営上の特色に鑑み、観客が一般の不特定多数の者ではなく、会費を納めた会員であるということである。しかし、入場税法第二条第一項では、観客が特定人であるかどうかは問うところではない。観客が会員その他の特定した人々であろうとなかろうと、それが「多数人に見せ、又は聞かせる」ものであれば、そこにいう「催物」に該当するのである。そして、原告らの例会における音楽、舞踊等の上演が数名の者を対象とするものではなく、多数人を対象とするものであることは、原告らも自認するとおりである。したがつて、右音楽、舞踊等の上演は、会員がみずから上演しみずから観賞するものでないことは極めて明白であるから、原告らの右主張は失当である。

(五) 原告らは、なんぴとからも「入場料金」を「領収」していないと主張し、その理由をいろいろ述べているので、次に若干反論しておく。

原告らは、会費は経費とトントンであることを建前としており、いわゆる同好会の持寄り会費そのものであるという。しかしながら、例えば原告東京労音が昭和三三年三月中に催した東京交響楽団の演奏会を例にとつてみると、同月一二日、一三日および一九日の三回は神田共立講堂で、また、同月三日、七日、八日、九日、一一日および一六日(ただし、八日および一六日は昼間)の六回は日比谷公会堂でそれぞれ催されているが、その会場の賃借料は前者の場合が二四万円、後者の場合が三五六、〇〇〇円であり、出演料は両者を合して七五万円であるから以上の経費合計額は一、〇一六、〇〇〇円となる(右数額はいずれも原告東京労音からの申告による。)。しかし、両会場の入場定員はそれぞれ二、〇一〇名および二、三三六名であり、毎回空席のないほどに入場しているのが通例であるから、これに入場した会員から徴収した会費は総計二、〇〇四、六〇〇円となり、事務局費(昭和三三年三月の事務局員に対する給与支給総額は二七九、五一五円であり、同月は上記東京交響楽団の演奏会のほか二一回の演奏会を催しているから、この経費のうち東京交響楽団の演奏会のための経費は約三分の一、すなわち、九三、一七〇円とみるのが相当である。)その他の経費を勘案しても、決して収支がトントンになるということはできない。また、原告東京労音が産経会館ホールに入場する会員から徴収している産経費一人当り三〇円の点についてみても、同ホールの定員は一、七一一名であるのに対し日比谷公会堂の定員は二、三三六名であつて、後者の一人当りの会場費は約二四円(日比谷公会堂の賃借料は五六、〇〇〇円ないし六八、〇〇〇円であるから、その最低額をとつて定員数で除した数額である。)であるのに対し、前者の場合は約三五円(産経会館ホールの賃借料は六万円であるから、これを前記定員数で除した数額である。)であつて、その差はわずか一一円にすぎないのであるから、そのために一人当り三〇円の産経費を徴収していることは、原告らの右主張が失当であることを示すものである。原告らは、例会以外にも諸活動をしており会費はそのためにも支出されるのであるから収支トントンであるというが、原告らの例会以外の諸活動に当てられる費用は、単に入場の対価として領収され原告らの収入となつた後の一部を原告らの計算において消費されるにすぎず、このことは、例えば、他の学生団体等が催物を開催し、団体構成員である入場者から入場の対価を得て、その一部を当該団体の他の諸活動の費用に当てる場合を考えてみれば、容易に判断がつくことである。

また、原告らは、会費は会員たる身分の取得および存続のための条件であつて入場の対価ではないと主張するが、原告らは例会と称する音楽、舞踊等の上演を唯一の契機として組織されたものであるから、音楽、舞踊等を観賞する者から領収される会費は入場の対価に相当するものである。このことは、例えば、次の例からも明らかであろう。すなわち、原告東京労音においては、会員が産経会館ホールに入場しようとする場合には、会員たる身分を有しているにもかかわらず、産経費三〇円を納入しないかぎり同ホールでの催物を観賞することができないし、また、出し物が相当高度の上演種目(例えば、外国人演奏家の演奏オペラ、バレー等)の場合には、多額の特別料金を追加して支払わないかぎり観賞することができないのである。原告らは、この場合会員みずからがこれを希望して選んだものであるから会員の自主上演に変りがないというが、かかる産経費にしろ特別料金にしろこれを決定する者は前述したように原告らの業務執行機関であつて、会員は単にこれに入場するかどうかを選択する自由しか有しないのである。されば、会員がみずからこれを決定しみずからこれを納入するものでないことは明白であり、それが入場の対価性を有することも明らかである。要するに、入場料金か否かは、その名義のいかんにかかわらず、実質的に入場の対価たる性質を有するか否かによつて決せられるべきものであるから(入場税法第二条第三項参照)、原告らの会員が原告らに納入する会費は入場料金に該当するものといわなければならない。

(証拠関係)<省略>

理由

一、原告らの主張第一項(一)記載の事実および第二項記載の事実(ただし、原告東京労音が昭和三三年四月分入場税として納付した金額については三四二、八四〇円の、また、原告函館労音が同月分入場税として納付した金額については五、五六〇円の限度において。さらに、原告宮崎音楽協会が納付した一二、四〇〇円については同月分の入場税であるとの点を除いて。)はいずれも当事者間に争いがない。

二、原告らは、右入場税の賦課処分は無効であると主張するので、以下逐次判断する。

(一)  原告らの主張第三項(一)の主張について

原告らは、原告らは人格なき社団であるからそもそも租税義務能力を有し得ないと主張し、その理由として、人格なき社団は実体法上権利能力を有しないから義務能力もなく、したがつて、租税債務の主体たり得ないことおよび人格なき社団は実体法上権利能力を有しないから所有権を取得する能力がなく、したがつて、これに対して納税義務を課してもその義務の履行は原始的に不能であることを挙げる。

そこで、まず、人格なき社団が、原告らの主張するように、実体法上権利能力を有し得ないものであるか否かについて検討する。

一般に、人格なき社団とは、共同の目的のために結集した人的結合体であつて、団体としての組織を備え、そこには多数決の原理が行なわれ、構成員の変更にもかかわらず団体そのものが存続し、その組織によつて代表の方法、総会の運営、財産の管理その他団体としての主要な点が確定しているものを指称するのであるが、右のような組織を備えた団体、すなわち、人格なき社団は機関たる代表者の行為によつて対外的に団体として行動し、第三者と取引関係を結び、社団の名において構成員全体のために権利を取得し義務を負担するものであつて、その活動の実体は社団法人となんら異なるところがない。されば、人格なき社団は、民法上これに権利能力を賦与した規定がないため法人格を有しないけれども、社会的な現象としては、社会生活上の一単位として実在し、社団法人に準じた実体法上の地位を有するものとして活動しているのである。

そして、法律がこのような社会的存在に対して権利能力(義務能力を含む。以下同じ。)を賦与するかどうかはまつたく立法政策の問題であり、各実定法はそれぞれの立場からこのような社会的存在に対して当該実定法上の法律関係における権利義務の主体たりうる地位(権利能力)を賦与することができるのである。したがつて、私法の分野においては権利能力を賦与されていない社会的存在に対して、公法の分野において権利能力を認めてこれを法的規制の対象としても、そこには、なんらの不都合もなければ理論上の不合理も存在しないのである。されば、租税法の分野において、かかる社会的存在である人格なき社団に納税義務を負わせるかどうかは、各租税法規がそれぞれの立場から定めらるものである。換言すれば、ある租税法規上人格なき社団が納税義務を負うものであるか否かは、もつぱら当該租税法規の解釈によつて定まるべき問題なのである。

したがつて、人格なき社団は実体法上権利能力を有しないから義務能力もなく、したがつて、そもそも租税債務の主体たり得ないという原告らの主張は失当であるといわなければならない。

原告らは、また、人格なき社団は実体法上権利能力を有し得ないから所有権を取得する能力がなく、したがつて、これに対して納税義務を課してもその履行は原始的に不能であると主張する。しかし、租税は経済的な負担をその本質とするのであるから、租税法の分野においては、ある社会的な事実の法的評価よりもその経済的評価を重視してこれを課税の対象としてとらえることも、租税法の特殊性によるものとしていつこうに不合理ではなく、したがつて、民法上権利能力を有しないものが租税法上納税義務の主体となることもそれ自体としてはなんらさしつかえないものというべきところ、人格なき社団は民法上権利能力を賦与されていないため法律上人格なき社団そのものとして所有権を取得する能力を有しないことは原告ら主張のとおりであるが、前述したように、人格なき社団は社会生活上の一単位として実在し、代表者の行為によつて対外的に活動し、第三者と取引関係を結び、その名において構成員全体のために権利を取得し義務を負担し、その取得した財産は法律的には構成員に総有的に帰属するが、社会的な現象としては人格なき社団がみずから財産上の権利を取得し、また、義務を負うような外観を呈しているのであるから、かかる社会的な事実の経済的側面に着目して租税法が人格なき社団に納税義務を負わせることはなんらさしつかえないものと解すべきである。そして、人格なき社団が納税義務者となつた場合には、社会的な現象として人格なき社団そのものに帰属するものとみられる(法律的には構成員全員の総有に属する)財産によつて納税義務を履行することを要し、また、それで足りるのであるから、原告ら主張のように人格なき社団に納税義務を負わせてもその履行は原始的に不能であるということはできない。よつて、原告らの右主張も失当である。

右のとおりであるから、原告らの主張第三項(一)の主張は理由がない。

(二)  原告らの主張第三項(二)の主張について

原告らは、人格なき社団は入場税法上の「主催者」、「納税義務者」になり得ないと主張する。

よつて案ずるに、入場税法第二条第二項は「この法律において「主催者」とは、臨時に興行場等を設け、又は興行場等をその経営者若しくは所有者から借り受けて催物を主催する者をいう。」と定義し、同法第三条は「興行場等の経営者(当該興行場等について別に主催者がある場合を除く。以下「経営者」という。)又は主催者(以下「経営者等」と総称する。)は、興行場等への入場者から領収する入場料金について、入場税を納める義務がある。」と規定しているが、右の規定自体からは、右の「経営者」および「主催者」の中に人格なき社団が含まれるかどうかは一見明白であるとはいえない。しかしながら、入場税は、入場税法第一条の規定からも明らかなように、同条に掲げる場所(興行場等)への入場行為に対して課される税であり、それは、興行場等へ一定の入場の対価すなわち入場料金を支払つて入場する者には、その娯楽的消費支出について担税力があるものとみて、これに入場税を課税しようとするものである。そして、また、このことから明らかなように、入場税の実質的負担者は入場者なのであつて、前記のように「経営者」または「主催者」が入場税の納税義務者とされているのは単に徴税上の便宜に基づくものなのである。このようにみてくると、入場税においては、所得の帰属主体が問題となる所得税あるいは法人税の場合と異なつて、納税義務者がどのようなものであるか、換言すれば、自然人であるか法人であるか、あるいは人格なき社団であるかなどということはそれほど重要な意味を有するものではないことが理解される。したがつて、入場税法が所得税法あるいは法人税法のように人格なき社団の納税義務について明文の規定をもつて定めなかつたとしても、そのことから原告らの主張するように人格なき社団が入場税の納税義務者でないと断定することは適当でない。むしろ、右に述べたような入場税の性質、すなわち、入場税が興行場等への入場行為に課されるものであり、その実質的負担者が入場者であること、したがつて、納税義務者が自然人であるか法人であるかあるいは人格なき社団であるかはそれほど重要ではないこと、入場税法の用いる「経営者」または「主催者」という用語がその言葉自体の意味としては必ずしも人格なき社団を排斥するものではないこと、それに同法第八条第一項が「別表の上欄に掲げる者が主催する催物が左の各号に掲げる条件に該当する場合において、第三項の規定による承認を受けたときは、当該催物が行われる場所への入場については、入場税を免除する。」と規定し、同法別表上欄において「児童、生徒、学生又は卒業生の団体」、「学校の後援団体」、「社会教育法第十条の社会教育関係団体」(社会教育法第一〇条は「この法律で「社会教育関係団体」とは、法人であると否とを問わず、公の支配に属しない団体で社会教育に関する事業を行うことを主たる目的とするものをいう。」と規定している。)等必ずしも法人格を有するものとは限らず、かえつて、通常は法人格を有しないものが多いと考えられる団体を掲げていること等を合わせ考えるならば、入場税法は、人格なき社団といえども、それが興行場等を設けまたは他から借り受けて催物を主催し興行場等への入場者から入場料金を領収する場合には、同法第三条により入場税の納税義務があるものとしていることは疑いを容れないものといわなければならない。そして、また、右のように解することが課税公平の原則に合致することにもなる。けだし、たとえば、法人格を有する団体と有しない団体とがともにひとしく興行場等を設けまたは他から借り受けて催物を主催し、入場者から入場料金を領収している場合に、後者のみを法人格を有しないとの理由で入場税の納税義務なしとすることは、入場税が前述のように興行場等への入場行為に対して課されるものであり、その実質的な負担者が入場者であることを考えるならば、法人格を有する団体の主催する催物に入場する者は入場税を負担しなければならないのに対し、法人格を有しない団体が主催する催物に入場する者は入場税を負担しなくてもよいこととなり、その間に理由のない課税上の不公平を生ずるからである。原告らは、入場税法第八条の規定により入場税の免除を受けることができる同法別表上欄に掲げる団体はいずれも法人格を有するもののみを意味するものと解すべきであると主張するが、その主張の理由のないことは右に述べたところから明らかであろう。

原告らは、人格なき社団が入場税法上の納税義務者に当らない理由として、同法第二三条および第二八条が人格なき社団に適用されないことおよび入場税法の一部を改正する法律(昭和三七年法律第五〇号)により右第二八条がいつたん改正され人格なき社団についても右規定が適用されることになつたが、その後整備法第一四条により右第二八条の改正部分が削除され、再び人格なき社団には同条の適用がないことになつたことを挙げる。しかしながら、右第二三条および第二八条はいずれも納税義務者を定めた規定ではなく、単に徴税の実効を期するために設けられた規定であるから、かかる規定において人格なき社団がその規制の対象に加えられていないからといつて、また、原告ら主張のような入場税法第二八条改正の経緯があつたとしても、このことから人格なき社団が入場税法第三条の納税義務者に含まれないものと結論付けることはできない。

よつて、原告らの主張第三項(二)の主張も理由がない。

(三)  原告らの主張第三項(三)の主張について

(1)  原告らは、人格なき社団は国民でないからこれに入場税の納税義務を負わせることは憲法第三〇条に違反すると主張する。

憲法第三〇条が「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」と規定していることは原告ら主張のとおりであるが、右規定は、国民の納税義務を宣言的な意味で定めたものにすぎず、納税義務者の範囲を国民または法人に限定する趣旨を有するものではない。納税の義務は、国民のみならず外国人や法人はもちろん人格なき社団であつても、憲法第八四条に基づき法律をもつてすれば負わせることができるのである。したがつて、人格なき社団に入場税の納税義務を負わせたからといつてなんら憲法第三〇条に違反するものではない。

よつて、原告らの右主張は失当である。

(2)  原告らは、人格なき社団に入場税の納税義務を負わせることは憲法第一四条に違反すると主張する。

しかしながら、人格なき社団といえども、前述のように、社会生活上の一単位として実在し、代表者の行為によつて対外的に活動し、みずから権利、義務の主体にはなり得ないが、その活動の実体は法人格を有する社団法人となんら異なるところはないのである。

そして入場税は本来入場者の興行場等への入場に対して課せられるものであることも前述のとおりである。そうとすれば、人格なき社団が自然人または法人のような法人格を有するものと同じように興行場等を設けまたは他人から借り受けて催物を主催し、入場者から入場料金を領収している場合には、社団自体に権利能力を認められないからといつて、これを他の法人格を有するものと別異に取り扱うべき理由は何らないのであるから、これに対して入場税の納税義務を負わせても、なんら法のもとにおける平等の原則に反することにはならないのである。

よつて、原告らの右主張も失当である。

(3)  原告らは、人格なき社団に入場税法上の納税義務を負わせることは憲法第八四条に違反すると主張し、その理由として、租税の納税義務は納税義務者の権利能力、特に所有権取得能力を前提としてはじめて成立し得、また、履行しうるものであるから人格なき社団に納税義務を課することは不合理であること、入場税法上人格なき社団が納税義務を負うべきものであるか否かについて明文の規定がなく不明確であることおよび仮に納税義務を負うべきものであるとしてもいかなる団体が人格なき社団に該当するかはきわめて不明確でありその確定が行政官の裁量に委ねられていることを挙げる。

しかしながら、前述のように、租税の納税義務は必ずしも民法上の権利能力を前提としなければ成立し得ずあるいは履行し得ないものではないから人格なき社団に納税義務を課してもなんら不合理ではなく、また、人格なき社団が入場税法上納税義務を負うべきものであることも、前述のように、同法の解釈上明らかであるから、同法が人格なき社団にも入場税の納税義務を課する旨を明文をもつて規定していないからといつて、憲法第八四条の要請である租税法律主義の原則に反することにはならない。次に、いかなる団体を人格なき社団に該当するものとみるかの問題は、自然人が戸籍制度、住民登録制度あるいは外国人登録制度等の、また、法人が登記制度等の公証作用によりそれぞれその存在を容易に確定しうるのとは異なり、人格なき社団についてはかかる公証制度がないためその存在を確定するのにかなりの困難が伴うことはたしかに否定し得ないところであるけれども、これは、抽象的な法規を具体的な事実に当てはめる際に常に生起する認定の問題であつて、しかも、このような事実認定の段階においては行政庁はその裁量ないしはし意によつて認定を左右することは許されないのであるから、たとえいかなる団体が入場税法上の納税義務者たる人格なき社団に該当するかの第一次的認定権が税務官庁の手に委ねられている(最終的には具体的な争訟事件を通じて裁判所が判断する。)からといつて、租税法律主義の原則に反するものということはできない。

よつて、原告らの右主張も採用できない。

(4)  さらに、原告らは、人格なき社団を入場税法上の納税義務者であると解することは憲法第三一条に違反すると主張する。

原告らの右主張は、入場税法第二五条ないし第二八条の罰則規定が人格なき社団にも適用されることを前提とするものであるが、右各条はその規定の文言上から明らかなように人格なき社団を処罰の対象とするものではないから、原告らの右主張はその余の点について判断するまでもなく失当である。

(四)  原告らの主張第三項(四)の主張について

原告らは、本件入場税賦課処分の対象となつた原告らの例会は入場税法第二条第一項の「催物」に該当しないから、原告らは同条第二項の「主催者」ではなく、したがつて、同条第三項の「入場者」および「入場料金」も存在しないと主張する。そこで、右主張の当否について検討する。

入場税法第二条第一項は、「この法律において「催物」とは、前条各号に掲げる場所(以下「興行場等」という。)において、映画、演劇、演芸、音楽、スポーツ、見せ物、競馬、競輪その他政令で定めるこれらに類するもので、多数人に見せ、又は聞かせるものをいう。」と規定している。したがつて、同法上の「催物」とは、多数人に見せまたは聞かせる側の者と見たり聞いたりする側の多数人の存在を当然の前提とする概念であることが理解される。そして、このうち、見せまたは聞かせる側の者が同法第二条第二項の「主催者」あるいは同法第三条にいう「経営者」であり、見たり聞いたりする側の者が同条にいう「入場者」に該当することは右第二条および第三条の規定の趣旨からみて明らかである。

そこで、本件についてみるに、原告らが健康で文化的な音楽、舞踊等を自主的に上演し、会員の情操と文化的教養を高め、音楽サークル活動の発展を図り、日本文化の創造と育成に寄与することを目的としてそれぞれの肩書事務所所在地およびその周辺の職場、地域、学校等における勤労者、農民、学生等の音楽愛好者をもつて組織された団体であり、規約があつてこれによつて代表の方法、最高決議機関の組織および運営の方法、財産の管理等が定められ、社会的現象または実在としては団体として活動しているものであつて、いわゆる人格なき社団に該当するものであることは当事者間に争いがない。そして、右争いのない事実に成立に争いのない甲第二号証ないし第一一号証、第一二号証の一ないし三、第一三号証、乙第一号証の一ないし四、第二号証ないし第四号証の各一、二、第五号証ないし第一一号証の各一ないし三、第一二、一三号証の各一ないし一四、第一四号証の一、二、第一五号証ないし第二四号証、第二五号証の一、二、第二六、二七号証、第四二号証、第四四号証、第四五号証の一、二、第四六、四七号証、第五〇号証、第五一号証の一ないし三、第五三号証の一ないし四、第五四号証ないし第五八号証の各一、二、第五九号証の一ないし三、第六〇号証の一ないし四、第六一号証の一ないし三、第六三号証ないし第六五号証の各一、二および証人北島斌、同水沼巽、同川添寿昭、同栗原明子、同久保道雄、同織田義夫、同大原宏一、同野口康一の各証言を総合すると次の事実が認められる。すなわち、原告らは前記のような目的のもとに設立された団体(人格なき社団)であつて、三名以上の会員をもつて構成されるサークルを基本組織とするものである。会員はいずれかのサークルに所属することを原則としているが、どのサークルにも所属しない個人会員の存在を認めているところもある。原告らの機関として総会(代表者会議と称するところもある。)、委員会(運営委員会と称するところもある。)、運営委員会(常任委員会と称するところもある。)、専門部等が設けられ、役員として委員長(会長等と称するところもある。)、副委員長、委員、事務局長、監査委員等が置かれている。また、原告らの運営に関し委員会あるいは運営委員会を補助して一切の事務を行なうため委員会あるいは運営委員会の統括のもとに事務局が設けられていて、事務局長および事務局員が置かれている。事務局員は原告らによつて雇用されたものであり、所定の給料および賞与を支給されている。しかして、総会において原告らの業務運営に関する基本方針が決定され、それが委員会あるいは委員会および運営委員会の議を経て具体化される。この具体化された運営方針を執行するのが運営委員会あるいは各専門部であり、事務局員はこれを補助するのである。ところで、原告らの業務のうちもつとも重要なものはその設立の目的からも明らかなように毎月例会を開催して音楽、舞踊等を上演し、会員にこれらを観賞する機会を提供することである。例会における上演種目は、総会において決定された基本方針に基づいて委員会あるいは運営委員会が具体的に決定する。右の上演種目の決定に当つては、各段階において会員からアンケートを徴しあるいはサークルないし地域における会員の討議を求めるなどして会員の希望や趣向を反映するように考慮が払われてはいるが、上演種目の決定そのものは原告らの機関である総会、委員会、運営委員会等によつて決定されている。そして、かくして決定され上演される種目は、オーケストラ、室内楽、声楽、舞踊、喜歌劇等一般の興行の上演種目とまつたく異なるところがない。原告らの例会会場の賃貸借契約の締結、その賃借料の支払、上演音楽家、舞踊家等との出演契約の締結、これに対する出演料の支払等は、ほとんどの場合、原告らの代表者である委員長が原告らの名と責任においてなしており、たまに委員、運営委員、事務局長、事務局員等がなす場合もないではないが、それは代表者である委員長からの委任に基づくものである。原告らの会員が例会に出席するためには、原則としてあらかじめ会費を納入し、それと引換えに整理券の交付を受け、これを持参することを要するのである。すなわち、原告らは前月中に翌月の例会の上演種目、上演日時、上演場所、上演者等を紹介した機関紙、代表者ニユース、速報版等の印刷物を各サークルの代表者に届けてこれを各サークル所属の会員に周知させる。各サークルの代表者は当該サークル所属の会員の希望する上演種目、入場日時をとりまとめ、会員から徴収した会費を添えて予約締切日までに事務局に申し込む。事務局においては予約締切日までに申込みのあつた会員の希望する上演種目、入場日時を集計し、これを調整した上、各会員の入場する上演種目、日時、座席等を指定した整理券を作成し、これを会員に交付する。会員はかくして交付を受けた整理券を例会当日会場に持参し、これを呈示して会場に入場し、上演物を観賞するのである。会員であつても整理券を持参しなければ例会会場に入場できない建前となつており(ただし、原告らのうちには、会員であることが立証されれば、整理券を持参しなくとも入場を認めているところもある。)、また、逆に整理券さえ持参すれば会員でなくとも例会会場に入場できるのが実情である。したがつて、会員の例会の予約および整理券の交付は一般の興行における前売券の発売となんらその機能を異にするものではない。また、会員は自己の希望する上演物が上演されるときは右のような手続を経て例会に出席することができるのであるが、他方、上演種目が自己の希望するものでないときには、会費を納めないことによつて自由に脱会することができる仕組みとなつている。これに対し、従来会員でなかつた者(かつて会員であつたがその後脱会した者を含む。)がある月の例会の上演物の観賞を希望するときには、入会金(五〇円ないし一〇〇円程度の僅少の額である。)とその出席を希望する例会の月分の会費を納入しいずれかのサークルに加入することによつて(個人会員の存在を認めるところでは必ずしもサークルに加入することは要件ではない。)会員となり、例会に出席することができる。その脱会が自由なことは前記のとおりである。かようにして、原告らへの入会および脱会は自由であつて、会員として入会するにも特定の資格要件を必要としないのである。その結果、原告らの会員数の一割前後が毎月流動していて、例会への出席者は必ずしも固定的な会員によつて構成されているものではない。のみならず、原告らの会員が毎月納入する会費は、その出席する例会の上演種目の内容、会場、座席の良否等によつて異なつており、しかも、その会費の決定は原告らの機関である委員会あるいは運営委員会においてなされている。しかも、会員の納入した会費は事実上原告らに帰属し、その管理するところとなり、前記の会場賃借料、出演料、事務局員への給料、賞与等もすべて右の会費によつて支払われている。以上のような事実が認められる。

そして、右の認定事実に徴すれば、本件入場税賦課処分の対象となつた原告らの例会は、個々の会員とは別個独立の社会的存在である原告ら自身が会員である多数人に見せまたは聞かせるために主催したもの、すなわち、入場税法第二条第一項に規定する「催物」に該当するものと解すべく、また、これを主催した原告らは同条第二項の「主催者」に、これを観賞した多数の会員は同条第三項にいう「入場者」に、そして、会員が納入した会費は同項の「入場料金」にそれぞれ該当するものと認めるのが相当である。

原告らは、原告らの本質はよい音楽等を自分たちの手で企画しこれを安く観賞するために実費を持ち寄つて集つた人々の集合体であるから、原告らは会員と別個独立の関係にあるものではなく、したがつて、原告らの例会には見せまたは聞かせる側の者と見たり聞いたりする側の者の対立はないと主張する。しかしながら、右認定のとおり、原告らは、その設立の目的はともかく、すでに個々の会員とは別個独立の社会的存在をなし、その主催する例会は原告らが会員である多数人に見せまたは聞かせるために催しているものであるから、原告らの右主張は失当である。

原告らは、また、原告らの運営が代表者や運営委員会等によつてなされても、それは法人の機関のような資格でなされるものではなく、会員個々人からの委任に基づく代理人としての資格によりなされるものであると主張するが、人格なき社団として個々の会員と別個独立の存在である原告らの委員長、運営委員会等は、前記認定のような活動の実態に照らしても、個々の会員の単なる代理人たるにとどまるものではなく、独立の組織体としての原告ら自身の機関として活動しているものとみるのが相当であるから、原告らの右主張も失当である。

原告らは、さらに、原告らの例会において上演される音楽、舞踊等を見たり聞いたりする者は会員として特定されていると主張するが、入場税法上の「催物」といいうるためには、同法第二条第一項の規定から明らかなとおり、多数人に見せまたは聞かせるものであれば足りるのであり、その多数人の特定、不特定を問わないのであるから、右主張はこの点においてすでに理由がないのみならず、前記認定のように、原告らの例会において音楽、舞踊等を見たり聞いたりする者は必ずしも固定されているとはいいがたいから、いずれにしても右主張は失当である。

以上のとおりであるから、原告らの主張第三項(四)の主張も採用できない。

(五)  原告らの主張第三項(五)の主張について

原告らは、まず、原告らはその構成員から独立した人格者ではないから会員から会費を領収してその金銭所有権を取得する能力を有せず、したがつて入場料金を領収しているといえないと主張する。しかしながら、前述のように、人格なき社団といえども入場税法上の納税義務者となる場合がありうるのであるから、そうとすれば、興行場等の経営者または主催者が入場者から領収する入場料金につき法律上金銭所有権を取得する能力を有するか否かは同法の問うところではなく、要するに、社会的な現象として入場料金の授受がなされ、それが右経営者または主催者によつて取得されているものと認められるような社会的事実が存すれば入場料金の「領収」があつたものというに妨げないものと解すべきである。しかるところ、前記のとおり、原告らはその構成員である個々の会員とは別個独立の存在を有する人格なき社団であり、原告らの会員が原告らに納入する会費はその代表者により原告ら自身の名において取得されているものと認められるような事実が存するのである。したがつて、原告らの右主張は失当である。

原告らは、次に、原告らの会費は収支トントンになることを建前としているから入場料金ではないと主張する。しかしながら、入場税法第二条第三項によると、入場料金とは興行場等の経営者または主催者が、いずれの名義でするかを問わず、興行場等の入場者から領収すべきその入場の対価をいうのであるから、それが経費等の支出をまかなつてなお余剰金を生ずるかどうかは問わない趣旨であると解される。そして、このことは入場税が所得税あるいは法人税等のようないわゆる収益課税ではなく消費税の性質を有するものであることからも是認されるのである。そうとすれば、仮に原告らの会費が実際に収支トントンであるとしても、これをもつて、右会費が入場料金でないことの論拠とすることはできない。よつて、原告らの右主張も失当である。

最後に、原告らは、原告らの会費は会員が会員たる身分を取得し、かつ、存続させるための条件であつて、例会において音楽、舞踊等を観賞するための入場の対価ではないと主張する。しかしながら、さきに認定した諸事実、すなわち、原告らは個々の会員とは別個独立の社会的存在であること、原告らの主張する例会への出席を希望する会員はあらかじめ会費を納入し整理券の交付を受け、これを例会当日持参しなければ入場できないこと、例会への出席を希望しない会員は会費を納入しないことによつて会員の資格を失い、それと同時に整理券の交付を受けることができず、例会会場に入場することができなくなること、他方、従来会員でなかつた者がある月の例会への出席を希望するときは入会金と会費とを支払い会員となつて整理券の交付を受けて例会に出席することができること、会費は必ずしも一定せず例会における上演種目の内容、会場、座席の良否等によつて異なる場合があること、しかも、右の整理券が他に譲渡された場合この整理券を持参した者は会員でなくとも例会会場に入場しうる実情にあること等の事実を合わせ考えれば、原告らの会費は会員たる身分を取得し、かつ、これを保持するための要件たる一面を有するとともに、同時に、例会において音楽、舞踊等を観賞するための入場の対価たる性質をも合わせ有するものと認められるのである。そして、入場税法第二条第三項の規定から明らかなように入場料金であるか否かはその名義いかんを問わず実質的に入場の対価たる性質を有するか否かによつて決せられるべきものであるから、そうとすれば、原告らの会員が毎月納入する会費は、会費という名称を有し、前記のような会員たる身分を取得し、かつ、保持するための要件たる一面を有するにしても、他面、入場の対価たる実質をも有する以上、入場税法上の入場料金に当るものといわなければならない。よつて原告らの右主張も失当である。

以上のとおりであるから、原告らの主張第三項(五)の主張も採用できない。

三、よつて、本件入場税賦課処分には原告ら主張のようなかしは何もないから、その無効であることを前提として被告に対し納付入場税の返還を求める原告らの本訴請求は理由がないものとして棄却することとし、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 位野木益雄 高林克巳 石井健吾)

(別表省略)

(別紙第一)

原告らの組織および運営の実情

一、原告らの各労音はそれぞれの時期において、職場や地域に組織されていた勤労者としての自覚のある音楽愛好者のサークルが集まつて成立したものである。労音成立後もその基本組織はサークルであり、各労音の活動はこれを構成する各サークルの活動の集合以外のものではない。

その成立の当初および本件訴を提起した当時に、サークルに結集しない個人会員が存在した労音もあるが、個人会員の比率はきわめて低く、労音の基本組織がサークルであるとの本質に影響はなかつた。

各労音はサークルが集つて成立し、サークルの人員がふえあるいは新たなサークルがふえることにより拡大した。個人会員の団体であつたものが、ある時期に個人会員を各サークルに組織替えしたものでは決してない。

二、労音の活動は自主的民主的に行なわれているが、そのためには会員各自の意思に基づき、その意思が活動に反映されなければならないし、また実際に反映されている。会員各自の意思に基づきその意思を活動に反映させるためには、会員各自の意見が充分に述べられなければならない。だからと言つて、数千数万あるいは十数万の会員が一堂に会することはできない。

数千、数万の会員が仮に一堂に会することができてもたびたび会合することはできない。一堂に会しても一人一人が意見を述べ、話し合い、討議することは時間的に絶対にできない。

しかし、比較的小人数の者たちなら一堂に会することも容易であり、一人一人意見を述べ、話し合い、討議することはできる。このような会合ならばたびたび会合することができる。会員各自の意見を出し合うには、比較的小人数で会合する以外に方法がない。この話合いの場がサークルである。労音の活動を自主的民主的に行なうには、会員はサークルに結集しなければならない。

サークルは定期的に又は適宜に会合を持ち、労音の活動についての話合いの場であるだけではない。サークルではサークル員の音楽文化の教養を高め、サークル員相互間の人間的理解を深め、連帯感を強化するために、レコード・コンサート、座談会、合評会、講座、合唱、フオーク・ダンス、社交ダンス、リクリエーシヨン等が行なわれる。また、サークル員はサークルとして毎月の例会に参加する。

合評会では、例会に上演されたものに対する長所や短所等の理解が深められ、どのように上演されるべきであつたか等の希望が話し合われる。座談会では例会に対する希望や要求や、労音の活動のあり方等が話し合われる。これらのことが話し合われるのは、合評会や座談会のみに限らず、その他の会合においても適宜に行なわれる。

右のサークル活動において、サークル員の音楽に対する理解を高めるよう努められる。ポピユラー音楽しか理解しない者にはクラシツク音楽を理解するよう援助する。それだけではなく、ポピユラー音楽や、クラシツク音楽を勤労者の思想感情に適するようにするにはどうされるべきか、又は、例会のオーケストラの指揮者や曲目の変更等についても話し合われる。また、日本の伝統音楽を勤労者の立場から、どう発展させるべきか等が話し合われる。

以上の話合いは、労音の活動のあり方や、例会はどうあるべきかという結論となる。その結論は後に述べるような方法により労音の活動全体に反映される。

右のサークル活動は、他のサークルと共同でなされることがある。労音ではこれをサークルの交流と呼んでいる。小人数のサークルでは右のサークル活動が行ないがたいので、この交流が行なわれる。

サークル活動の中心となるものは、サークルの代表者とサークルの活動家であるが、その代表者、活動家は、サークルの代議員、地域や労音の委員である場合もある。サークル員のうちに、ある種のサークル活動の中心人物となる者がいないときは、他のサークルや地域から適当な人が派遣されることもある。

三、原告らの各労音には、地域毎に種々の組織と会議があり、地域としての活動が行なわれている。このようにして、地域全体の各サークル員の地域としての活動を活溌にするよう意識的に取り組まれている。

地域活動により、地域の各サークルの交流がより可能となる。進んだサークルの経験を遅れたサークルは学び、また、意識的に遅れた弱いサークルを地域全体として援助する。

地域全体として、前述したサークル活動と同様な活動を、自主的に拡大して行なつている。小人数のサークルは、地域活動に参加することによつてサークル活動の要求を満たすことができる。

このようにして、地域活動は地域内のサークルの活動の質を高め、活動を発展させている。

地域会議の構成は、一般に地域総会と地域委員会であり、地域委員は各サークルより選出される。地域委員会と別に地域のサークル代表者会議がある労音もある。

前述したようにサークルは話合いの場であり、ここでサークル員が討議してサークル員の意思を集約し、サークルで集約されたサークル員の意思が更に地域会議で集約される。この集約された意思は、組織部会を通じ又は直接に各労音の運営委員会に提出される。

運営委員の選出方法は各労音により一様ではない。東京労音の例のごとく労音の総会により選出される委員の委員会から選出される場合と、地域委員のうちから選出される場合との差はあるが、運営委員の選出される母体が地域会議であることは同様である。これらの関係からみて、地域で集約された各サークル員の意思が運営委員に反映され、この集約された意思により、運営委員が援助され、激励され、批判される。

四、すでに述べたような方法により、労音の会員の意思は運営委員会に反映されるが、会員の意思が運営委員会に反映される方法は、それだけではない。労音の総会において、年間の例会の内容やその他の活動のあり方が大綱的に決定される。その決定されたものが労音の委員会や地域会議において検討され、その検討されたものが、運営委員会において具体化される。

サークルで集約されたサークル員の意思は、サークル代表者やサークル活動家によつて、労音の委員会や企画部等の専門部や運営委員会に直接提出されている。

労音の委員、地域委員、運営委員は、サークルの代表者かサークルの活動家である。これらの者はサークル員の意思を直接知つており、サークル員の意思を委員会や地域委員会、運営委員会に反映させることができる。

それだけでなく、労音の会員は、総会や各種の委員会や、専門部の会合に任意に参加して発言することができる。

労音の活動の一環である例会についていえば、例会ごとに各会員から、アンケートをとる方式が採用されていて、例会に関する会員の意見が述べられ、この意見は各種委員会や専門部で討議され、できるかぎり労音の活動に取り入れられている。

五、本件では、労音の諸活動のうち特に例会が問題とされているので、例会については、次の点を述べよう。

東京、大阪等の大都市以外の労音の例会は、学校の講堂、体育館、公民館等で行なわれている。したがつて、例会のために、会場に椅子を並べ、舞台の装置、照明、音響の機械の設置操作等の会場の設営、会場の受付、楽屋がかり、演奏者の駅への出迎え、見送り、旅館や会場への案内等は、当番のサークル員自身によつて行なわれている。

また、すべての労音についてではないが、例会において、一部の会員が音楽、合唱等に参加していることもある。

これらのサークル員も、他のサークル員と同様にその月分の会費をきよ出している。

右のことは、原告らの各労音の例会が、一般の興行と比較して、現象的にも異る点のあることを明らかにするために述べたのである。

六、さらに次のことを述べなければならない。

原告らの各労音の委員、運営委員、専門部員、地域委員等のいわゆる役員、事務局員もサークル員であり、他の会員と同様に会費をきよ出している。

右の役員等は、すべて自分の本職としての職場を持つている。役員は勤務が終えてから労音の仕事をする。それは無報酬であるだけでなく、労音の仕事をするために交通費や夕食費を持ち出している。

例会を含めて労音の諸活動には会員が参加するのであり、会員でないものは参加できない。

労音の諸活動の費用は、会員のきよ出する会費によつて賄われている。

労音の諸活動とは、前述したサークルや地域の活動、機関紙、ニユースの発行、送付、通信、事務局員の活動、例会の開催、全国の労音相互間の連絡、全国の労音の代表者の海外派遣等々である。しかも会費をきよ出した会員の約一割の者が例会に参加していない。

七、以上、原告らの各労音の組織、活動、運営をやや具体的に述べたのは、労音の実態を明らかにするためである。

これにより明らかなように、労音とは、会員の日常の労音活動の総体である。その活動は諸種のサークル活動、諸種の地域活動、委員会や運営委員会の活動と積み重ねられている。しかもその積み重ねられた活動は、サークル活動から運営委員会まで相互に内部的に日常連絡されている。このことは、他の一般の団体において、総会で役員が選出されるが役員となつた以後、他の団体員と日常組織的な連絡がないのと趣を異にする。労音のいわゆる役員は、役員であると同時に労音のサークル員であり、会員の意思と対立し、会員の意思から超越し、会員の意思から独立した存在ではない。労音の役員は、文字どおり労音の会員全体の奉仕者であり、会員の意思を尊重しており、自己の独自な意見を会員に押しつけているものではない。

(以上)

(別紙第二)

税制調査会の答申

一、現行制度

現行税法においては人格のない社団又は財団(「以下人格のない社団等」という。)につき次のように規定が設けられている。

(一) 所得税法及び法人税法においては、それぞれ、これを法人とみなして納税義務を負わしめる特別の規定があり、その違反行為に対する罰則も整備されている。

(二) 相続税法においては、人格のない社団等に対する財産の贈与又は遺贈があつた場合につき、これを個人とみなして贈与税又は相続税の納税義務を負わせることとしているが、罰則については特別の規定が設けられていない。

(三) 間接税諸法においては、人格のない社団等に納税義務を負わしめる明文の規定はないが、入場税法においては、免税興行の主催者の中に人格のない社団等にあたるものを掲記しており、人格のない社団等に納税義務があることを前提としていることが認められる。

(四) 国税徴収法においては、人格のない社団等を法人とみなして同法を適用することとし、さらにその納税義務の承継、人格のない社団等に属する財産の名義人の第二次納税義務及び人格のない社団等の財産の払もどし又は分配を受けた者の第二次納税義務につきあわせて規定が設けられており、その違反行為に対する罰則も整備されている。

二、検討と結論

(一) 納税義務

(イ) 人格のない社団等においては、一般に、以前は民法上の組合の規定を適用すべきであるとされたが、それが組合のように個個人のたんなる集合でなく、それをこえた独立の存在であることが社会的にも認められるようになり、法人格のない点を除いては、できるだけ社団法人又は財団法人と同様に取り扱うべきであるとされるようになつてきた。

税法においても、人格のない社団等が社会的実体として種々の活動を行なうところからこれに対し納税義務を負わしめるべきであるということはつとに認められていたが、これを法人とみなして法人税を課税するか、それとも個人とみて所得税を課税するかについては従来種々の見解があつた。この問題については、上記のように、人格のない社団等が団体としての組織を有し、統一された意志のもとにその構成員の個性を超越して活動する社会的実体であることに着目して、これを明らかにして税負担の公平を図るため、昭和三二年の税法改正により、前記のように所得税法及び法人税法において明文の規定が設けられたのである。したがつて所得税法及び法人税法に関する限り、今日問題はない。

なお、相続税及び贈与税については、これらの租税の特殊性から、前記のように、特に人格のない社団等を個人とみなし課税することとしているのであつて、その限りにおいて正当な措置と認められる。

他方、間接税は、課税物品の製造、販売等が行なわれた場合に一定の税を課するいわゆる物税であるところから、上記の直接税の場合と異なり、本来、製造者、販売者等がどのような性格のものであるかは税負担の面において関係なく、人格のない社団等がそのような地位にあれば、これを個人とみるか法人とみなすかはさほど重要な問題ではないのであつて、いづれにしても当然納税義務を負うべきものと解される。したがつて、昭和三二年の税法改正においても、間接税諸法には、これについて特に規定が設けられなかつたのである。

ところが最近、間接税法上の規定をめぐつて、人格のない社団等に対する罰則の適用について問題が生じているので、この際、人格のない社団等の基本的な納税義務を立法上明らかにすることが適当であると考える。

しかして、この場合、相続税及び贈与税についての特殊な場合を除外すれば、人格のない社団等の実体に着目して、これを法人とみなして税法を適用することとするのが適当と認められる。

(ロ) 次に、人格のない社団等が納税義務を履行しないでその財産の分配又は払もどしをした場合についてはどうするかという問題がある。現行法では、国税徴収法の規定により、その払もどし又は分配を受けた者等は人格のない社団等の第二次納税義務を負うこととされ、その徴税確保の措置が採られている。しかしこの第二次納税義務を負わせるにあたつて、その基本になる納税義務が人格のない社団等について具体的に確定していること、すなわち、申告、決定、更正等がされていることが前提要件となる。

ところで、人格のない社団等は、その設立、運営はもとより消滅に至るまで私法の規制対象外であるところから、その設立や消滅が自由かつ容易に行なわれ、しかもその公示の制度は存しない。

したがつて、人格のない社団等が負うべき納税義務が具体的に確定する前に団体の消滅することがしばしば見受けられるが、このような場合においては、課税の適正を期すため、前記と同様な考え方により、その租税の課税上は、人格のない社団等が存続するものとみなし、あわせて消滅の際における代表者又は管理人を引き続きその代表者又は管理人とみなすこととすべきである。

(二) 罰則

現行の所得税法、法人税法及び国税徴収法においては、前記のように、人格のない社団等について罰則規定が整備されているので問題はない。

これに対し、間接税諸法においては、人格のない社団等について罰則規定が何ら触れていないところから問題を生じた。たとえば、物品税法においては、第一八条に脱税犯等に対する罰則を定め、別に第二二条に両罰則規定を置いているが、これらの規定をめぐつて、種々の解釈がなされ、人格のない社団等に脱税行為があつたときに現行規定のもとでこれに対し罰則を適用しうるかどうかについて議論がなされた。

一つの解釈は、第一八条の規定は、業務主体が個人である場合にその個人たる業務主体が違法行為をした場合に限つて適用され、その従業者等が違反行為をした場合には従業者等には適用がないのであつて、この行為者に対する処罰は、第二二条の「行為者を罰するのほかその法人又は人に対し各本条の罰金刑を科す。」とある場合の「行為者を罰する」という規定によつて処罰されるというのである。このような解釈をとるとしても、「法人又は人」については、罰則の根拠条文の引用に問題があるだけで、行為が処罰されることは、差異がない。ところが、人格のない社団等については、物品税法の罰則に特に明記されていないから、このような解釈をとる場合には、両罰責任者としての人格のない社団等自体が罰せられないことはもちろんその違反行為者である従業員等も処罰されないことになり、人格のない社団等に関しては、いつさい罰則の適用がないことになる。

これに対し、他の一つの解釈は、第一八条の規定は、使用人、従業員等の違反行為の行為者に対し直接適用されるのであつて、第二二条の両罰規定をまつ必要はなく、第二二条の両罰規定は、まさにその業務主体たる人又は法人をも処罰する規定であると解するのである。このように解釈するならば、人格のない社団等の脱税行為に対しては、現行法のもとでも、少なくとも行為者を処罰することは可能となる。

社会的存在として活動する団体については、それが法人格を持つと否とにかかわらず、税法上の違反行為に対しては、当然ひとしく処罰されるべきであるのに、現行法のもとにおいては、上記の後説にたつならばともかく、前説によるならば、人格のない社団等の違反行為について全く法律上の真空状態が生ずることとなり、とうてい妥当とはいえないので、この際、各税を通じて、人格のない社団等及びその代表者又は管理人等を処罰しうることを明確に規定すべきである。

(以上)

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